京都・金閣寺「舎利殿」【世界遺産(文化遺産)】【特別史跡】【特別名勝】
創建年
1398年(応永5年)※室町時代前期
1422年(応永29年)※鹿苑寺創建(推定)
再建年
- 1487年(長享元年)
- 1488年(長享2年)
- 1537年(天文6年)
- 1649年(慶安2年)
- 1904年(明治37年)
- 1955年(昭和30年)
- 1987年(昭和62年)
- 1997年(平成9年)
- 2005年(平成17年)
- 2007年(平成19年)
- 2020年(令和2年)9月1日(月)~12月(こけら屋根葺き替え工事)
※工事期間中は舎利殿が見えないので鏡湖池畔の踊り場に舎利殿の大型写真パネル(2.4m×3.6m)の設置対応。
正式名
北山鹿苑禅寺
山号(鹿苑寺)
北山
別名・通称
金閣寺
ユネスコ世界遺産(文化遺産)「古都京都の文化財」指定年月日
1994年(平成6年)
金閣寺(鹿苑寺)・庭園【国指定・特別史跡】【国指定・特別名勝】
- 特別史跡指定年月日
・1925年(大正14年)10月8日 - 特別名勝指定年月日
・1956年(昭和31年)7月19日
発願者
足利義満※北山山荘(北山第)
足利義持※鹿苑寺
開山:足利義満※鹿苑寺
開基:夢窓疎石※鹿苑寺
項・一覧
金閣寺・鹿苑寺の読み方と正式名
金閣寺は「鹿苑寺」というお寺の舎利殿という建物の通称ですが、一般的には「鹿苑寺」自体が金閣寺の通称で知られています。
鹿苑寺は「ろくおんじ」と読みます。
しかし正式名は「北山鹿苑禅寺」と称し、「きたやまろくおんぜんじ」と読みます。
「鹿苑寺」の名前が付けられた理由
かつてこの金閣寺には、西園寺家が造営した「北山山荘と西園寺」という寺院が境内に存在していました。
この当時、義満公は河内国(大阪)に所領を持っており、この所領と上述の北山山荘・西園寺の土地を交換して欲しいと西園寺家に打診しました。
後にこの交換が成立し、義満公はここに金閣・舎利殿をはじめとした建物をいくつか造営し「北山第」や「北山殿」と命名し政治の中心としました。
10年後、義満公がこの世を去る直前、枕元に長男・義持(4代目将軍)を呼び寄せ「自らが亡くなった後は、この金閣を禅寺(禅宗の寺院)とあらためよ」と遺言を残しました。
後に義満公の葬儀が営まれ、この時「鹿苑院」という法号が義満公に付されています。
義持は義満公の遺言を守り、金閣を禅寺とし、この時、義満公の法号である「鹿苑」の字をとって、名称を「鹿苑寺」と改めました。
「金閣(舎利殿)の大きさ・広さ」
大きさ
- 正面:5間(約10m)
- 側面:4間(約7.5m)
- 三層目:3間(約5.5m)
建築様式(造り)
- 二重三階建て
- 初層
・素木造り
・蔀戸
・寝殿造り - 二層目
・全面金箔貼り
・舞良戸
・格子窓 - 三層目
・全面金箔貼り
・床部・総黒漆塗り
・双折桟唐戸(中央部)
・花頭窓
・鏡天井
屋根の造り
- 宝形造り
- こけら葺き
通称、「金閣」と呼ばれる「舎利殿」の大きさは、東西方向は、横の部分的に少し出た部分を含むと1.8m、南北方向は8.5m、高さは12.5m となっています。
三層目は禅宗様式で造営されています。
内部の天井は鏡天井で、他にも花頭窓、木鼻、双折桟唐戸、逆蓮柱の擬宝珠などは、禅宗様の特徴をよく示すものとなっています。
京都・金閣寺(鹿苑寺)の境内の広さ
京都・金閣寺の敷地面積は40000坪で、その大半を占めているのが「庭園」や「池」になっています。
40000坪の内、約28000坪が国の【特別名勝】【特別史跡】の指定を受けています。
また1994年(平成6年)には「古都京都の文化財」として、ユネスコの世界遺産の登録指定を受けるに至っています。
「古都京都の文化財」・一覧
- 京都市北区
賀茂別雷神社(上賀茂神社)
鹿苑寺(金閣寺) - 京都市西京区
西芳寺(苔寺)、高山寺、天龍寺、仁和寺、龍安寺 - 京都市左京区
賀茂御祖神社(下鴨神社)
慈照寺(銀閣寺) - 滋賀県大津市坂本本町・京都市左京区
比叡山延暦寺※比叡山すべてが対象 - 京都市南区
教王護国寺(東寺) - 京都市東山区
清水寺※地主神社を含む - 京都市伏見区
醍醐寺 - 京都市下京区
本願寺(西本願寺) - 京都市中京区
二条城、宇治市、平等院、宇治上神社
金閣寺を造った人(作者)と造られた理由
「金閣寺」は、1397年に室町幕府の3代将軍「足利義満」が建てた北山第や北山山荘と呼ばれる別荘が起源です。
前述の通り、足利義満の死後には、禅寺に改められています。
「足利義満」は、初代将軍である尊氏から三代目の将軍にあたり、驚くことになんと!当代の天皇と従兄弟にあたると言われています。
歴史の裏に潜んでいた「足利義満が金閣寺を作った真の目的」
足利義満が金閣寺を作った(建立)したのは、「天皇家を乗っ取ろうとした自己顕示や野望の象徴」だったとも言われています。
「足利義満」は、息子の義持を四代目将軍とし、義持の異母弟である義嗣を、親王形式で皇太子に立てようとしました。
もしも、次男が皇太子、天皇となれば、自分は天皇の父ですから「上皇」と同じような立場になれます。
それは、皇位奪取ともいえますが、「足利義満」自身が天皇に即位するのではありません。
実権を保持し、院政を行う上皇の立場である「治天の君」となって天皇の権力を強奪することが狙いです。
そうなれば、自分と息子たちとで「足利王朝」が出来ると考え、自分たちの「御所」を用意する意味で、建てたのが「金閣・舎利殿」です。
京都・金閣寺の建築様式(建築構造)
「舎利殿」は3階層からなり、大きな特徴として、各階異なる建築様式が用いられています。
1層目
1層目は「法水院(ほすいん)」と呼称されます。
白木造りの平安時代の貴族の邸宅を思わせる寝殿造りで造営されています。
寝殿造りは平安時代に考案された建築様式の1つで、現在有名な寝殿造りの例として広島県の「厳島神社」が挙げられます。
1層の内部の台座には2体の像が安置されています。
台座左側の「足利義満像」、そして台座右側の「宝冠をかぶった釈迦如来坐像」です。
宝冠をかぶった釈迦如来はまさに仏教の世界の王とも呼べる存在であり、その傍らに自らの像を配することで仏の世界と現世の両方の世界の王であるいう意思表示をしているとも考えられています。
また1層目だけ金箔が施されたいないのは、寝殿造りで「公家」や「貴族」を表現した上で、
- 無駄に国力を浪費するだけの公家(貴族)は、自らが創造するこれからの世には不必要なものである。
- 国を造り治めるは武士であり、公家や貴族ではない。公家(貴族)必要のない存在である。
・・と、いったことを表現していると言われております。
1層目の見どころ「漱清」をお忘れなく!
また舎利殿の東側には「漱清(そうせい)」と呼ばれる、いわゆる平安貴族の家宅に見られた「釣殿(つりどの)」が連接されています。舎利殿の大きな見どころの1つです。…だから、漱清を作るとき、”そうせぃ”!言うたやろっ!!
釣殿まで行くことはできませんが、東側に回り込むことで割合間近で見ることができます。
金閣寺に訪れる際は望遠鏡をお忘れなく!(特に舎利殿は鏡湖池の向こう側に建っている上、間近で見れる位置が裏側になるので正面がどうしても見えづらいです。)
2層目
2層目は「潮音洞(ちょうおんどう)」と呼称します。
別名で「武家様式」とも呼ばれ、これは「武士は1層目の貴族よりもさらに高い位置にいることのできる尊い存在である」ことを表現していると伝えられています。
2層目の西側中央には須弥壇(しゅみだん/大きな仏壇のこと)が据えられ、その上には岩屋観音の坐像が配されています。
更に、その岩屋観音坐像の四方を守護する形で四天王立像が配されています。
天井には「天空を回遊する天女の絵」、その周りには「雲」が描かれています。
2層目の大きな特徴は、内部の天井以外の壁や床が、すべて美しい光沢を帯びた「黒漆塗り」で仕上げられている天です。
黒漆塗りで塗装された床や壁は顔が映るほどの光沢をもった美しさを誇ります。
息を飲むような美しさです。
尚、昭和の大修理の際、金箔を押す前(貼る前)の漆塗り作業の段階で、漆塗り一色に染まった金閣寺は、とてもこの世のものとは思えない、言葉にできないほどの美しさだった伝えられています。
金箔では表現できない、黒く澄み切った光り輝く漆が鏡湖池に映し出される様を見て、このまま金箔を貼らなくても良いのでは?・・などとといったことが僧侶の間でも囁かれたそうです。
3層目
3層目は禅宗様式で造営された金閣・舎利殿の最上層で、「究竟頂(くっきょうちょう)」と呼称します。
仏教風の言葉で、訳すると「究極の頂」と解釈されます。
義満公は中国の皇帝「朱元璋(しゅげんしょう)」を尊敬していましたので、中国の禅宗様式を用いることで「中国の皇帝はこの世でもっとも尊い存在」であることを表現したかったとも考えらえています。
つまり、その中国皇帝を敬い、中国皇帝の教えを学び実行しようとする自らも同じく尊い存在であり、日本の王として相応しい、といったことが表現されているということです。
3層内部中央には「仏舎利(ぶっしゃり)」が安置され、その中にはお釈迦様のお骨が奉安されています。
(本当にお釈迦様の骨が収められているわけではありまっしぇん)
床面のみ総黒漆塗りで、四方の壁面および天井はすべて金箔が貼られています。
天井には、約11cm×約11cmの正方形で、厚さ5ミリの金箔が押されて(貼られて)います。
昭和の大修理の際、11cm×11cmの金箔を1ミリの狂いもなくキッチリと押す(貼る)ことが要求されていたために、たった1人の金箔押しの職人が、半日かけて、約3000枚もの金箔を見事に貼り終えたということです。
(多数の職人で押す(貼る)とクセが出てキッチリと貼れないため)
ちなみに1人で3000枚もの金箔押しを1ミリの狂いもなくたった半日で行うのは、腕利きの職人でも絶対に不可能と言われるレベルです。
不可能な理由とは、ちょっと想像すると分かると思いますが、内部の天井ということは両腕を上げて首を上に向けた体勢での作業になるわけです。
この上さらにその姿勢で12時間近くも延々と作業するわけです。
体力と精神力、それに集中力が、常人ではとてももちません。
この時まさにこの職人に仏の力が宿ったとも言われ、後世にまで神業として語り継がれるだろうとの話です。
他に内部には、壁面には茶室でよく見かける台形の「花頭窓(かとうまど)」が据えられており、この花頭窓から適度な光が挿して内部を金色に染めています。
そしてこの3層目の屋根登頂には、「鳳凰(ほうおう)」が飾り立てられています。
「鳳凰」は、永遠の命と権力の象徴とされています。
金閣・舎利殿から見える庭園は衣笠山を借景とした「池泉廻遊式庭園」という築庭様式で造営されています。
義満公はこの庭園に日本列島をも借景とし用いています。
その様は、こう例えることができます。「もっとも天にほど近い3層目から日本の王として日本全土を治める」「果ては仏の世界とも通じ、すべての王になる」と。
創建当初の金閣寺の建設費ってどのくらい??
「金閣寺」の建築費用は100万貫を超えたと推定されています。
100万貫は現在の貨幣価値から計算すると・・なんと!!・・優に【100億円】を超える金額です。
義満公はこれらの金子を諸大名に命じて出させ、北山第の造営工事にあたらせています。
この100万貫という数字は金閣・舎利殿だけが対象ではなく、北山第には他にも建造物がありましたので、これらの造営費用をすべて合算した金額になります。
北山第・創建時の建造物群・一覧
護摩堂、金閣・舎利殿、天鏡閣、せん法堂、紫宸殿、公卿の間、北の御所、南御所、泉殿、など
金閣が「あまりにも美しすぎる」のに腹が立ち、本当に燃やししてしまった人
金閣寺は一度、1950年(昭和25年)7月2日に、金閣寺の放火事件により、火災で全焼しています。
しかし、1955年に当時の住職:村上慈海の必死の勧進活動によって約3000万円が集められ、それを元手でに再建されましたが、ギリギリの予算での再建計画であったため、1層目の義満像の復元までできなかったとのことです。
しかしその後、金箔の剥落が激しかった為、再度1987年に、約7億4千万円をかけて金箔の張り替え等が行われました。
金箔の厚さは従来の約5倍となる約5ミリ。
1枚の大きさは10.8センチ四方の正方形で、総枚数は約20万枚、総重量約20kgもの金を使用しています。
また、漆は最上級品である岩手県二戸市の「浄法寺漆(じょうぼうじうるし)」が、約1.45トン用いられています。
塗って乾かしてまた塗って・・65もの工程を伴う綿密な作業が、腕利きの職人によって行なわれました。
金閣寺に金箔が貼られた理由や金箔の量や屋根上の鳥の飾りの正体や意味とは?
金閣寺(舎利殿)に金箔が貼られた理由や金箔の量、屋根上の鳥の飾りの正体や意味についての詳細は下記ページをご参照ください。
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