京都・金閣寺は京都市内から少し外れた場所に建立されており、洛中から少し北へ外れた場所に位置します。
そんなことから、交通の便もけっして良いとは言い難いものとなりますが、例年、平日でもたくさんの観光客が押し寄せるようにクソほど訪れます。
以下では、京都・金閣寺の歴史・行事(イベント)・拝観料金・営業時間(開門・閉門時間)・見学所要時間をご紹介します。
京都・金閣寺の歴史(年表付き)
※タップで素敵に左右可動※
年 | できごと |
---|---|
1336年 | 足利尊氏、北朝から権大納言(鎌倉大納言)に任ぜられ「鎌倉将軍(鎌倉殿)」継承。実質の室町幕府の成立年 |
1338年 | 足利尊氏が室町幕府創設を公式に宣言 |
1339年 | 足利尊氏、天龍寺(禅寺)を建立 |
1358年 | 足利義満が誕生 |
1368年 | 義満、正式に室町幕府第3代将軍を宣言 |
1378年 | 義満、京都室町北路通り沿いに造営された「室町第(室町殿)」へ幕府を移す。 |
1382年 | 義満「相国寺」建立を画策、「仏殿」「法堂」の建設開始される |
1383年 | 相国寺の正式名「萬年山相國承天禅寺」に決定する |
1385年 | 相国寺「仏殿・三門・僧堂・法堂」が完成(建設開始からの工期:3年) |
1386年 | 義満、自らが発願した相国寺に「京都五山(禅院の格式制度)」の2番目の格を与える |
年 | できごと |
---|---|
1392年 | 南北朝が統一される。相国寺が完成。 |
1394年 | 義満、将軍職を辞し長男・義持へ将軍職を譲る。太政大臣へ就任。 |
1395年 | 義満、太政大臣を辞す。出家する。 |
1397年 | 義満、京都北山の西園寺邸を譲り受ける。舎利殿(金閣)の構想を計画。建設が始まる。 |
1398年 | 舎利殿(金閣)完成を迎える。工期わずか1年足らず |
1398年 | 義満、室町第(室町殿)から旧・西園寺邸(金閣)へ移る。以後、金閣が政務の中心となり、影から日本大陸を操る。 |
1401年 | 義満、国交を開くため、かねてから崇拝する中国・明へ使者を送る |
1402年 | 義満、中国・明との間に国交を得る |
1402年 | 義満、来港した明の使者を旧・西園寺邸(金閣)で迎える |
年 | できごと |
---|---|
1403年 | 義満、受戒(北山殿) |
1404年 | 日明貿易(勘合貿易)が開始される。倭寇(海賊が勃発) |
1404年 | 義満、明の皇帝から正式に日本の王(源道義/みなもとのどうぎ)と認められる。その証として「日本国王之印」を、明の使者より受けとる。七重塔(大塔)造営が北山第にて開始される。 |
1406年 | 義満の住居「北の御所」の造営が開始 |
1408年 | 後小松天皇が北山第へ行幸。世阿弥が日本で初めて能を披露。義満、死去。51歳。 |
1416年 | 七重塔が落雷により全焼する。 |
1416年 | 北山第の伽藍が解体される。舎利殿、護摩堂以外の建造物が対象 |
1420年 | 旧・北山第が夢窓疎石を開山として義持の手により「鹿苑寺(ろくおんじ)」の名前に改められる。(義満の遺言) |
1422年 | 義持「鹿苑寺」参詣する。 |
年 | できごと |
---|---|
1449年 | 足利義政、室町幕府第8代将軍に就任 |
足利王朝(王権)失墜の兆しおおよそ13歳で、将軍職を継いだ義政は、あまりにも「遊の心」が強く、政務を放棄し、懐脇の細川勝元と山名宗全へ幕政を委ねてしまう。 | |
1467年 | 応仁の乱(宗全と勝元の覇権争い)が勃発。京都が戦場の中心となったため洛中は火の海、社寺、民家はほぼ壊滅的に消滅。金閣だけは一命を取り留めるが、義満建立の鹿苑寺を失う |
これ以後、日本各地の守護代の力が急激に増し、足利幕府の権威が失墜。下克上が勃発し、再び、戦乱の世へと変貌を遂げていく。 | |
1473年 | 足利義政、ついに将軍職を辞す |
1474年 | 足利義政が妻・日野富子、子・義尚を連れ、鹿苑寺へ参詣。 |
1482年 | 足利義政、余生を送るため東山の麓に山荘(東山殿)の建設を開始。工事は義政の没後以降も延長して継続され1490年に完成を迎える |
1482年 | 義政「常御所」が完成した時点で東山山荘へ移る |
1485年 | 義政、出家。 |
1486年 | 東山山荘に東求堂(義政の持仏堂)が完成。書院は同仁斎と名付けられ、以後、茶室の源流へと変貌を遂げる。 |
年 | できごと |
---|---|
1487年 | 東山山荘の「会所」「泉殿」が完成 |
1487年 | 義政、東山山荘に「銀閣」造営を画策。鹿苑寺(金閣)へ訪れ参考にする。 |
1488年 | 鹿苑寺境内に客殿が造営される |
1449年 | 義政、病床に伏す。同年、義政、銀閣の完成を見る甲斐もなく死去 |
1490年 | 義政の没後後スグ、皮肉にも銀閣が完成 |
1490年 | 東山山荘は禅院へ改める(義政の遺言) |
1490年 | 東山山荘(銀閣)が慈照寺と名付けられる(義政の遺言) |
1504年 | 足利義澄が鹿苑寺へ参詣。 |
1537年 | 金閣寺の住職・梅叔(ばいじゅく)法霖が金閣・舎利殿を改修する。 |
1543年 | 種子島にポルトガル人が来港。日本大陸に鉄砲が伝来 |
1549年 | フランシスコ=ザビエルが来港し日本大陸へ「キリスト教」が伝来 |
1568年 | 信長、義昭を奉じて入京 |
1573年 | 室町幕府滅亡信長、義昭を京都から追放。宇喜多秀家が不動堂を再建する |
1624年-1644年 | 金森宗和が金閣寺(鹿苑寺)境内に茶室・夕佳亭を造営する |
年 | できごと |
1649年 | 金閣寺(鹿苑寺)改修工事が開始される。 |
1661年 | 後水尾天皇が行幸する。 |
1661年 | 文雅慶彦が金閣寺(鹿苑寺)境内に方丈を創建。 |
1759年 | 伊藤若冲が金閣寺(鹿苑寺)境内・大書院の襖絵を完成させる。 |
1904年 | 金閣寺(鹿苑寺)舎利殿改修工事が開始される。 |
1906年 | 改修工事が完了する。1代目(初代)鳳凰取り外し2代目鳳凰と交換される。 |
1950年 | 金閣寺(鹿苑寺)修行僧が金閣・舎利殿に放火、舎利殿全焼する。 |
1955年 | 金閣寺(鹿苑寺)の再建工事が開始される。鳳凰取り外し3代目鳳凰と交換される。 |
1958年 | 金閣寺(鹿苑寺)境内の大書院・方丈の改修工事が終了する。 |
1987年 | 金閣寺(鹿苑寺)境内の改修工事が終了する。金箔全面張り替え。 |
1994年 | 「古都京都の文化財」として世界遺産(文化遺産)の指定を受ける。 |
2007年 | 金閣寺(鹿苑寺)境内の方丈の解体修理が完成を迎える。 |
足利幕府(室町幕府)歴代将軍 の一覧
※タップで素敵に左右可動※
将軍就任年 | 将軍名 |
---|---|
1338年(暦応元年) | 足利幕府創設者/初代将軍「足利尊氏」 |
1358年(延文3年) | 足利幕府2代目将軍 「足利義詮」 |
1368年(応安元年) | 足利幕府3代将軍 「足利義満」 |
1394年(応永元年) | 足利幕府4代将軍 「足利義持」 |
1423年(応永30年) | 足利幕府5代将軍 「足利義量」 |
1429年(正長2年) | 足利幕府6代将軍 「足利義教」※別名「くじ引き将軍」 |
1442年(嘉吉2年) | 足利幕府7代将軍 「足利義勝」 |
1449年(文安6年) | 足利幕府8代将軍 「足利義政」 |
1473年(文明5年) | 足利幕府9将軍代 「足利義尚」 |
1490年(延徳2年) | 足利幕府10代将軍 「足利義材」 |
1494年(明応10年) | 足利幕府11代将軍 「足利義澄」 |
1508年(永正5年) | 足利幕府10代将軍 「足利義尹(歴任/足利義材)」 |
1521年(大永元年) | 足利幕府12代将軍 「足利義晴」 |
1546年(天文15年) | 足利幕府13代将軍 「足利義輝」 |
1568年(永禄11年) | 足利幕府14代将軍 「足利義栄」 |
1568年(永禄11年) | 足利幕府15代将軍 「足利義昭」 |
京都・金閣寺の歴史と「年表に依る説明と解説」
引用先・http://www.city.sakai.lg.jp/
「金閣寺」は正式名称で「北山鹿苑禅寺(きたやまろくおんぜんじ)」と呼称します。
山号は「北山」です。山号は金閣寺の背面に位置する衣笠山や左大文字山が北山と呼称されていたため、これをそのまま山号にしています。
金閣寺の前は「西園寺という山荘であり寺院であったことは有名です」が、その前身があったことはあまり知られていません。
金閣寺(鹿苑寺)の前身の・・前身??
実は西園寺の前身は「花山天皇(かざんてんのう)」の孫「延信王(のぶざねおう)」から代々続く「白川伯王家(しらかわはくおうけ)」、通称「伯家(はくけ)」の所領でした。
この時、西園寺公経(藤原公経)は、尾張国松枝庄(愛知県)に所領を持っていましたが、伯家の所領(現在の金閣寺)に目を付けており、伯家に対して自らの尾張の所領と交換を申し出ます。
後にこれが承諾され、1224年に西園寺という寺院を建立します。
さらに、その寺院の北側に山荘を造営し、この山荘に「北山第(きたやまてい)」と名づけます。
ここに「世に2つとない比類なき絢爛豪華な山荘」が誕生することとなります。
尚、西園寺の名前はこの時の寺院の名前の西園寺から取り、以降、藤原姓を廃して西園寺姓を名乗っています。
しかし西園寺家が栄えたのは公経自身の力と鎌倉幕府が後ろ盾になっていた要因が大きく、公経が亡くなり、後醍醐天皇によって鎌倉幕府が滅ぼされると、後醍醐天皇による政治が始まり、急激に衰えていきます。
この後、西園寺家は歴史上から一時的に姿を消すことになります。
西園寺家の復興
その後、時代は流れ、何とかして西園寺家の再興を願った公経の子孫である「西園寺公宗」は、後醍醐天皇を暗殺し別の天皇を擁立する計画を立てます。
しかしこの計画も、なんと!弟の西園寺公重に見つかって密告され捕縛の上、処刑されてしまいます。
ただ、この時密告して自らの命を救った、公重に対し後醍醐天皇は篤い信任を寄せるようになります。
公重も後醍醐天皇の後押しで出世を果たし、再び西園寺家が再興されていきます。
2度目の壮大な御殿「北山第(北山殿)」の完成!
その後、1397年(応永4年)に室町幕府の3代将軍「足利義満」が、西園寺家に対して自らが所有していた河内国の所領と現在の金閣の土地である「北山第」との交換を申し出ます。
この交換が成立し、義満はその年にかつて公経が造営した「北山第」を彷彿とされる壮大な山荘を造り上げます。
そして名前を公経の頃と同じ「北山第(北山殿)」と命名します。北山第の復活です。
義満の北山第の敷地はかなり広大なもので衣笠山はもとより、東の果ては紙屋川、南の果ては現在の駐車場のあたりまであったと伝えられています。
また北山第には以下のような5つの巨大な建造物が造営され、これら5つの建造物群が政治の中心となっていました。
「北の御所」
義満公が生活をする場所です。
「南御所」
義満の嫁ハン「日野康子」が生活するための場所です。
崇賢門院の御所
崇賢門院とは「すうけんもんいん」と読み、後光厳天皇の典侍(宮中の女官の最高位)で、後円融天皇の生母にあたる人物です。
金閣・舎利殿
現在の鏡湖池の畔にそびえ立つ金色の舎利殿のことです。
天鏡閣
「てんきょうかく」と読み、かつて金閣舎利殿の北側に造営された建造物です。会所(かいしょ)の役割を持っていたされ、15間(約30m以上)もの広さがあったと伝えられています。二層目には豪勢な廊下が用いられ、金閣・舎利殿の二層目と接続されていたと伝えられています。この廊下は「空中廊下・天空廊下」と呼ばれていたようです。
泉殿
天鏡閣のさらに北側に造営されていた殿舎です。
特に天鏡閣は会所であったがために、かなり巨大な建造物であったと伝えられています。面積は畳約30畳、四辺の長さは約30mあり、東西に巨大な部屋が設けられていたと伝えられています。
この会所は1408年(応永15年)3月に催行された後小松天皇を招いての遊宴を執り行うために造営されています。
尚、義満公はこのような会所を、幕府が置かれた「室町第(室町殿)」にも造営しており、これが武家社会における会所の起源だと云われています。
以後、会所は書院造りを用いた茶室などに姿を変えて行くことになり、豊臣秀吉や織田信長など、多くの武将がこの会所に倣い、武家中心の社会を形成していきます。
ちなみに会所とは「客人を迎えるための客殿のこと」であり、「会議を行う場所のこと」です。
このような会所を設けて巧みに利用することで、自らの立場を有利にし、繁栄の礎を築くことができるというわけです。
以後、義満はこの北山第に金閣・舎利殿を造営し、自らを「日本国の王」と称し、日本全国の諸大名を支配下におき、足利王朝を成立させます。
しかし義満公の寿命は思いの他、早期に到来し、儚くも10年後に命を散らしています。
鹿苑寺(金閣寺)の創建
足利義満は死の直前に息子・義持を枕元に呼び寄せ「自らの死後、この北山第を禅寺とするように」との遺言を残し、この世を去ることになります。
この後、義持は、遺言通り北山第の名前をあらため「鹿苑寺(ろくおんじ)」と命名し、開山に夢窓疎石を迎え、禅寺としています。
以降、歴代室町幕府の将軍は、行事としてこの北山第に参詣に訪れています。
義満の長男である4代目将軍・義持は義満から良く思われていなかったのを知っていたため、参詣はするも義満が死去した後は北山第に入ることはしませんでした。
南御所のみが使用されていたと云われております。
後に南御所の主である日野康子が死去すると北山第(鹿苑寺)は解体されてしまい、付近の諸寺へ敷地が分配されていきます。
この時に残ったのが現在の金閣・舎利殿とわずかな建造物群です。
足利王朝の失墜と金閣炎上
この後、1441年(嘉吉元年)に播磨・備前・美作の守護代「赤松満祐」が6代目将軍足利義教をなんと!暗殺してしまいます。
この騒動を「嘉吉の乱(かきつのらん)」と呼び、これを境に将軍家の権威が衰えていきます。
この後、火に油を注ぐかの如く、1467年に応仁の乱が勃発し、金閣寺境内には西軍の陣が敷かれています。
そしてこの応仁の乱で金閣・舎利殿を残し境内は全焼します。
金閣・舎利殿の再建の歴史と2度目の炎上
後、江戸時代となる1649年(慶安2年)には、戦乱や雨風などが原因で老朽化していた境内全体を対象とした大規模な改修工事が執り行われています。
1906年(明治39年)にも同様に大規模な改修工事が執り行われています。
1929年には国宝の指定を受けますが、1950年7月2日に、なんと!当時、金閣の修行僧であった「林養賢」により、金閣・舎利殿は放火され全焼してしまいます。
その後、愛弟子の失態を重く受け止め、金閣の早期再建を目標に立てた、当時の住職・村上慈海が決死の勧進活動を行い、これが功を奏し、日本だけならず海外からも寄付金が寄せられます。
さらに国や京都府も呼応して金閣再建を支援し、なんと!1952年に再建計画が成り、1955年に見事、完成を迎えています。
この時の再建で初代の鳳凰が下ろされて、2代目の鳳凰に取り替えられています。
しかし、この再建で押した金箔の厚さが薄いことが影響し、金閣の骨組みでもあるヒノキ材が腐り果て、挙句、金箔までもが紫外線で剥がれ落ち、「黒閣寺」と呼ばれるまでの惨状に至ります。
その後、黒色と化した金閣を再建するために1987年に昭和の大修理を計画し、厚さを5倍増しにした「5ミリの厚さの金箔」を用意して舎利殿すべてを対象に金箔の貼り替えが行われています。
この他、木曽産の良質のヒノキを用いての修繕や、天井画の補修も行われ、屋根上の鳳凰も現在の鳳凰となる3代目の鳳凰に取り替えられています。
1994年(平成6年)には、他の京都の社寺とともに「古都京都の文化財」として、ユネスコの世界遺産の登録指定を受けるに至っています。
「古都京都の文化財」・一覧
- 京都市北区
賀茂別雷神社(上賀茂神社)
鹿苑寺(金閣寺) - 京都市西京区
西芳寺(苔寺)、高山寺、天龍寺、仁和寺、龍安寺 - 京都市左京区
賀茂御祖神社(下鴨神社)
慈照寺(銀閣寺) - 滋賀県大津市坂本本町・京都市左京区
比叡山延暦寺※比叡山すべてが対象 - 京都市南区
教王護国寺(東寺) - 京都市東山区
清水寺※地主神社を含む - 京都市伏見区
醍醐寺 - 京都市下京区
本願寺(西本願寺) - 京都市中京区
二条城、宇治市、平等院、宇治上神社
【補足】足利義満とはどんな人物??
足利義満は幼名を「春王」と称し、幼い頃は人一倍の努力を惜しまない好青年だったと云われております。
「国民的アニメ・一休さん」で登場する義満公は、かなりの痛キャラで、かなり面白おかしく描かれています。
仏教に目覚め、出家して僧籍を得ていますが、その反面、頭が冴えわたり、冷酷な面を強く持った暴君でもありました。
京都・金閣寺のイベント・行事
金閣寺・不動堂開扉法要
引用先:http://www.kyotokanko.co.jp/
- 日程:例年2月3日(水)
- 開扉時間:9:00~10:45、12:00~16:30
「不動堂開扉法要」の内容(概要)
節分の日の11時より、不動堂にて秘仏の弘法大師作と伝えられる「石不動明王」の法
要が行われます。
普段は閉扉されている不動堂が開扉され、法要の前後に参拝ができます。
金閣寺・不動堂開扉法要の送り火
- 日程:2016年8月16日(火) ※この日程は未確定です。
(公式発表前などの理由で日程が未定のため、例年の日程などを元に予測した日程で
す。)
「不動堂開扉法要の送り火」の内容(概要)
鹿苑寺不動堂は、弘法大師作と伝えられる不動明王が秘仏としてお祀りしてあります。
毎年2月3日の「節分」と8月16日の「大文字送り火」の日に不動明王開扉法要が営
まれ、本山相国寺関係寺院の出仕により大般若経の祈祷が行われます。
不動堂や不動堂の行事イベントについての詳細は当サイトの以下↓のページにてご紹介しております。
京都・金閣寺の秋の紅葉時期
金閣寺でも、毎年、秋になると境内に生息するモミジたちの美の競艶が繰り広げられます。
また、金閣寺の背景にそびえる、北山も秋口に差し掛かると、それはもぅ、君の首筋のイボのように美しい紅葉をみせてくれます。チュッ♥
- 「金閣寺」の紅葉の見ごろ:11月中旬~12月上旬位
尚、見頃時期は気温によって大きく異なります。紅葉の葉が色付きを見せるためには、昼と夜で温度差が必要になります。 (昼間は10度以上は必要)
【豆知識】えぇっ?!金閣寺の法要はたった「1つしかない」?!
知る人ぞ知る事実ですが、実はなんと!金閣寺の年中行事やイベントは上記の「不動堂開扉法要」「たった1つ」のみです。
日本はもとより世界的に有名な寺院であるのに、いったい何故1つしか無いのでしょうか?
ちなみに、金閣寺は銀閣寺と共に「臨済宗相国寺派」のお寺の1つです。
ホームページでは「相国寺の塔頭(たっちゅう)寺院」と紹介されていますが、多くの人にとっては馴染みの薄い言葉です。
「塔頭」とは、字体は似ていますが「ぼうず頭(ハゲ)」の事ではなく、寺の開祖の死後、その弟子らが師を偲んで建てた塔や墓のことです。
ちなみに「相国寺(しょうこくじ)」とは、「京都市上京区・同志社大学」の付近にある「臨済宗相国寺派」の総本山の寺院です。
つまり、分かりやすく言うと金閣寺・銀閣寺は相国寺の「子寺院」といったことになります。
京都・金閣寺に年中行事やイベントが「たった1つしかない理由」
金閣寺と銀閣寺の間にある「京都御苑」のすぐそばに建つ相国寺は、金閣寺よりも前に、室町幕府3代将軍の足利義満が建てたお寺です。
「足利義満」と聞けば、坊主頭に袈裟を着用し、坊さんの格好をした肖像画を見知る方がほとんどだと思われます。
しかし、義満は武士であり、列記とした「征夷大将軍」でもあります。
つまり、義満は物心付いた時から僧侶ではなく、仏教(臨済宗)に心酔してしまうほど信仰を寄せており、その結果ハゲにしたのです。
義満は僧侶なので、自らが相国寺の開祖(開山)になっても良かったはずですが、開祖は「夢窓疎石(むそう そせき)」という僧侶になっています。
↑夢窓疎石
足利義満が夢窓疎石を「開祖にした理由」
足利義満に関する由来や伝記の話をどれだけ聞いても、おそらく「夢窓疎石」と言う人物と義満のつながりは、いっさい見えてこないと思います。
それもそのハズです。
なんと!夢窓疎石は、義満の誕生前に亡くなっているからです。
しかし、義満は夢窓疎石を開祖にしています。
これは一体どのような事なのか?・・などと言う疑問が出てきますが、義満は「臨済宗」の中でも特に「夢窓派」に強く惹かれ信仰していたため、自らの「師」として、夢窓疎石を敬愛していました。
そして金閣寺・銀閣寺もこれに倣い(ならい)、夢窓疎石を開祖としているといったことになります。
現代においての「金閣」は「寺院」としての認知度が先行していますが、過去を振り返れば義満の時代は「寺院」ではなく「北山第」もしくが「北山殿」と呼称される「別荘」として創建しており、義満はこの「別荘」を自身の政治活動にも利用しています。
そして義満の没後に、義満自身の遺言によって「寺院」となっています。
以上のことから、相国寺と金閣寺・銀閣寺は場所は離れているものの「1つのお寺(伽藍)」と言ってもいいほどに密接なつながりを持っています。
現在では、相国寺の僧侶が、任期制で金閣寺・銀閣寺の運営を行っており、一般的な仏教行事や臨済宗の行事は、3つの寺院を代表して相国寺で行うため、金閣寺で行われる行事が少なくなっています。ウフウフ..2連発
京都・金閣寺の拝観料金・拝観所要時間(見学所要時間)
営業時間(拝観可能時間)
- 9:00~17:00
拝観料金
- 大人(高校生ふくむ):400円
- 小・中学生:300円
金閣寺の受付で拝観料金を支払うと「御札」をいただけます。
この御札は2種類あり「大人・一般用」と「学生用」とあります。
学生用の御札には「学業成就」や「交通安全」と記載があります。
一方、大人(一般用)の御札には「開運招福」「家内安全」と記載があります。
2つともコンプリートしたい方は、学生の親戚などを連れて行くなどしかありません。
学生の親戚がいない場合、最後の手段としてコスプレが頭に浮かんできますが、オッサン、オバハンであれば無理でしょうな。(コスプレは年齢詐称の犯罪です。)
そう考えると、学生用の御札は学生の間しか授かることができないので、かなりレア度が高いものと言えます。
京都・金閣寺の拝観(見学)所要時間
- 拝観のみ⇒約30分ほど
- 割とジックリと拝観⇒50分ほど
- 「ジックリと拝観+買い物・御朱印授与」⇒1時間ほど
- 「ジックリと拝観+買い物・御朱印授与+茶屋で休憩」⇒1時間10分ほど
金閣寺の拝観料金・拝観所要時間については当サイトの以下↓の別ページにてご紹介しております。
【謎】京都・金閣寺の「拝観料金(割引)・拝観所要時間・年中行事・イベント行事」
京都・金閣寺の見どころ(見所)・観光所要時間 (見学所要時間)・境内地図【画像・写真付き】
京都・金閣寺のINFO
✨住所:京都市北区金閣寺町1
✨公式サイト:https://www.shokoku-ji.jp/kinkakuji/
関連記事一覧
スポンサードリンク -Sponsored Link-
当サイトの内容には一部、専門性のある掲載がありますが、これらは信頼できる情報源を複数参照して掲載しているつもりです。 また、閲覧者様に予告なく内容を変更することがありますのでご了承下さい。