京都・仁和寺「五重塔」【重要文化財】
造営年
1637年(寛永14年)※現、五重塔
建築様式(造り)
方形造り
五重・仏塔
大きさ
高さ:32.7メートル(総高36.18メートル)
四辺:約6メートル
屋根の造り
本瓦葺
重要文化財指定年月日
1900年(明治33年)4月7日
京都・仁和寺「五重塔」の読み方
五重塔は言うまでもなく「ごじゅうのとう」と読みます。
また、少し小高い丘に建ち、古くから御室の街々から観ることができたことから、地元では「御室の塔」と呼ばれ親しまれてきた歴史を持ちます。
ところで・・「塔」とは?
仏教における重塔は仏舎利と呼ばれるお釈迦様の遺灰を安置しておくために建てられる塔になります。
インドでは古くから故人を祀る際、故人と縁のある品や遺灰などを地中に埋めて、その上から土を盛って祀っていた歴史があります。
特に偉人を祀る際は高い塔を建てて祀っていたことが明らかにされており、この文化が中国へ伝わり日本へ伝来しています。
五重塔の各層の意味
五重塔は初層部(1F)から以下のような意味合いがあるとされています。
初層部:地(基礎)
2層目:水(塔身)
3層目:火(笠)
4層目:風(請花)
最上層:空(宝珠)
これら5つの世界で仏教の中心的教理とも言える「五大要素」や「宇宙観」を表しています。
仁和寺・五重塔の歴史・由来
仁和寺は過去、度重なる伽藍の焼失によって、創建当初からの歴史などが記された資料が焼失しています。
このため、五重塔が存在したのか?存在していたとすれば創建年はいつなのか?など、いっさい不明となります。
仁和寺は江戸初期の寛永期に徳川家光公の発願によって伽藍の大改修、再建工事が行われています。
この五重塔も寛永期に造営された塔になります。
創建年代を割り出す証拠としては昭和時代に行われた屋根の葺き替え工事の際、瓦の下地にあたる土居葺板(どいぶきいた)に寛永期に造営されたことを紐づける墨書が見つかっています。
仁和寺・五重塔の建築様式・造り
よく五重塔の創建の年代を割り出す時、各層の屋根の大きさで推定することがあります。
各層の屋根の大きさが最上層から初層部まで均一であれば、比較的、近代に造営された塔で、例えば世界最古の木造建築と云われる法隆寺・五重塔は初層部の面積がもっとも大きく最上層になると初層部の約半分の大きさになると云われています。
この仁和寺の五重塔を遠目から見ると分かりますが、初層部から最上層までの屋根の大きさが均一であることが視認できます。
これは割合新しい時代に造営された五重塔である証拠の1つとなります。
一方で前身の五重塔の様式を真似たのかイメージしたのか、屋根は二軒繁垂木、中備に蟇股を配さず、塔を三手先の出組みや支輪で組み上げている点など、割合、古い時代(奈良時代あたり?)の和様式で造営されています。
この観点からの考察で分かり得ることは寛永期の再建では、古代の仁和寺の寺観を回復し、かつての威容を再現しようとした趣が感じ取れるということです。
仁和寺・五重塔の内部
五重塔の内部は極彩色で彩れた4つの柱に須弥壇があり、中央には塔の重心をとる極太の心柱が1本据えられています。
4本の柱には諸仏、内壁には真言八祖(しんごんはっそ)が描かれ、極彩色が今なお健在です。
須弥壇には大日如来が祀られ、その周りを天鼓雷音、宝幢、開敷華王、無量寿如来の「胎蔵界四仏」が並び中央の大日如来を守護しています。
また大日如来を含め「胎蔵界五仏」とし、大日如来の教理世界である胎蔵界を表現し、密教における道場と成しています。
一方で、あくまで門跡寺院であることを物語るかの如く、格天井には天皇家を示す家紋「菊の御紋(十六八重表菊)」が描かれています。
仁和寺・五重塔の見どころ
「アーク」
五重塔正面出入口の扉上部には「胎蔵界・大日如来」を示す「アーク」の梵字が描かれた額が飾られています。
「小さい鬼ちゃん」
五重塔の尾垂木の先端をよく見ると、小さな鬼が屋根を必死になって支えている姿が見えます。
これらの邪鬼は夜叉(やしゃ)であり、四天王の眷属と云われており、塔の四方に配することで四方の邪をしりぞけると云われております。
「龍の鬼瓦」
これも仁和寺の七不思議と言えますが、なんと!南東の屋根瓦にのみ、龍の屋根瓦が据えられています。
仁和寺・五重塔の場所
仁和寺・五重塔は二王門から境内へ入り、直進した先に位置する中門をくぐり抜け、少し直進した右脇に見えてきます。
スポンサードリンク -Sponsored Link-
当サイトの内容には一部、専門性のある掲載がありますが、これらは信頼できる情報源を複数参照して掲載しているつもりです。 また、閲覧者様に予告なく内容を変更することがありますのでご了承下さい。