わら天神はもともと山の中にあった?
創建当初の京都・わら天神宮(敷地神社)は「北山」の山奥の「北山天神丘」と呼称される場所で祭祀されていました。
北山には山の神が往古より鎮座されていましたが、831年(天長8年/平安時代)に北山の山内に「氷室(ひむろ)=氷の倉庫」が造営され、その際、氷室の管理人として加賀国(石川県南部)の国人が移送されてきたそうな。
現在も残る「衣笠氷室町」という地名に、この歴史が垣間見えます。
国人たちは引越す際に、自らが信奉していた地元・加賀の土地神である「菅生石部神社(すごういそべじんじゃ=敷地天神)」の分霊を奉戴した。
北山にやってきた加賀国の国人たちが「わら天神」を創建した
北山に到着した国人は、敷地天神の分霊をお祀りすることになりますが、北山にはすでに山神が祭祀され鎮座されておりましたので、山神の左脇に「祠(ほこら)」を建てることにしました。
この祠こそが現在の「わら天神宮(敷地神社)」の前身であり、起源であるとされています。
足利義満が現在地へ遷座させた
1397年(応永4年/室町時代)に足利義満が北山殿(金閣寺)を造営する際、北山にあった山神の神社、および菅生石部神社の祠までの山道が不便だったことから、義満公はこれら2柱の神を合祀して「北山第(現在の金閣寺)の鎮守神として現在の当地へ遷座させた。
そして、社号も改号し、菅生石部神社の通称である「敷地神社(天神宮とも)」とした。
応仁の乱で灰燼に帰す
1467年(応仁元年)に京都市中で勃発した応仁の乱は周辺各国にまで拡大し、わら天神社も甚大な被害を受けた。
戦後、荒地同然の境内に何とか御仮殿を建て、しばらくは仮宮で御祭神を祀り、諸祭を執行した。
江戸時代後期に大改修が実施される
当社では1847年(弘化4年/江戸時代末期)に大補修を実施し、1935年(昭和10年)の改修を経て、現在の姿に整えられました。
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