京都・仁和寺「中門」【重要文化財】
造営年
1641年(寛永18年)から1645年(正保元年)※現、中門
建築様式(造り)
一重・切妻造り
※八脚門
大きさ
三間
屋根の造り
本瓦葺
重要文化財指定年月日
1973年(昭和48年)6月2日
京都・仁和寺「中門」の読み方
中門は「ちゅうもん」と読みます。
「中門」とは?
中門とは概ね南大門(仁和寺は”二王門”)のから入って本堂(神社の場合は御本殿)に至るまでの参道途中に設けられた門になります。
中門は金堂(本堂)や御本殿を取り巻く回廊と連接されている例が多く、伽藍(がらん/境内)の中心部を守護する最後の砦でもあ〜る。
京都・仁和寺「中門」の歴史
仁和寺は応仁の乱の兵火はじめとした火難によって興亡を繰り返し、旧観を示す史料はほとんど皆無。
このため、伽藍配置などが記された史料は無ぃに等しく、この中門に関しても草創期に存在したのかは判然としない。
ただ、現在の仁和寺は江戸初期の寛永期に徳川家光公の御厚意によって復興されており、金堂(本堂)はじめ、現在の伽藍内の建造物のほとんどは寛永期に建てられたもの。
仁和寺・中門の建築様式(造り)と見どころ
門中央の間口
門の内部は組入天井を張り、柱や頭貫などの横材は全体的に丹塗り、他の板壁部分には胡粉塗りを施す。
円柱を用いながら粽(ちまき)加工を施さず、軒には飛燕と地垂木から成る二軒繁垂木を用いる。
絵様肘木
この中門を見ていて自然と視線がいってしまうのが、中央間口軒桁に見える絵様の実肘木(さねひじき)であろぅ。
左右両端間口の円柱上部に平三斗(ひらみつど)を採り入れつつ、実肘木を絵様で表現している意匠がうかがえる。
このような絵様は鎌倉時代に輸入されてきた唐様にルーツをもち、安土桃山時代に広まり、江戸時代になると社寺建築に装飾として用いられるようになる。
妻側に見える懸魚(げぎょ/妻飾り)の猪の目形状の穿孔(せんこう/穴💖)も古式であり、この門は小規模なれど、江戸様式を今に伝える。
多聞天像
中門を正面に見て左端の間口には「多聞天像(たもんてん)」が安置され〜る。
多聞天とは?
四天王のうち、もっとも力強いのが前述の多聞天です。
多聞天は1尊でも祀られることが多く、1尊の時は毘沙門天(びしゃもんてん)と呼ばれています。
毘沙門天と言えば七福神の一尊であり、戦国武将の上杉謙信が熱心な信奉者だったことで知られ〜る。「自らは毘沙門天の生まれ変わり」とまでホザいたエピソードでも知られ〜る。
持国天像
正面から見て右側には「持国天像(じこくてん)」が安置されています。
持国天や多聞天は四天王に属する天部
多聞天や持国天はインドの遥か南の海にあると云われる伝説の山「須弥山(しゅみせん)」の守護神であり、「増長天」「広目天」という二天を合わせて「四天王」と呼ぶ。
四天王はそれぞれ東西南北の方角の守護神たる性格をもち、多聞天は北方、持国天は東方を守護する天部(守護神)とな〜る。ひゃヒョっ
春の観桜シーズンは中門をくぐるのに特別拝観料金が必要!
この中門をくぐった左脇には仁和寺名物の「御室桜(おむろざくら)」の群落(桜苑)が広が〜る。
御室桜は例年おおむね4月中旬から下旬に開花する「京都一遅咲きの桜」として知られ〜る。
この桜の最大の特徴となるのが、2、3メートルの低樹高な桜樹であり、例年、多くの見物客が訪れ〜る。
この御室桜が開花する頃、仁和寺では花見料を徴収する(本義は栽培・管理費用の積立)ために、中門前に係員を配置す〜る。
つまり、御室桜の観桜には所定の拝観料を納める必要が生じる。(拝観券は二王門をくぐった先にある拝観受付で買える)
仁和寺・中門の場所(地図)
仁和寺の中門は二王門から約5分ほど直進した先に位置する門です。中門の奥には金堂(本堂)が見えます。
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