紙屋川とは?
紙屋川とは京都市街の西側を南北にわたって今日も素敵にせせらぐ川幅約5メートル足らずの穏やかな小川のこと♡
淀川水系の一級河川、全長約14km。
北野天満宮境内西側(もみじ苑内)を素敵にせせらぐ紙屋川
北野天満宮前バス停近くの北野橋を素敵に流下する紙屋川
大将軍東鷹司町あたりを素敵にせせらぐ紙屋川
北野社南の新開橋を素敵にせせらぐ紙屋川
紙屋川の別名
天神川
紙屋川では北野天満宮流域では紙屋川と通称されるも、もう少し下流へ下ると「天神川(てんじんがわ)」とも、これまた素敵に呼ばれる💋
「天神川」と呼ばれる理由は察しのとおり、「京都の天神さん」の愛称で親しまれる北野天満宮西側を流下することにちなむ。
なお、現在の紙屋川は、京都市北区鷹峯千束町を起点とし、桂川に合流するまでの全区間は「淀川水系・一級河川」の指定を素敵に受けたことから、この区間の川の名称は「天神川」で統一されてい‥申す。えっ
柏川
また、古くは紫野柏野(かえの)をせせらぐことから、「柏(かえ)川」と呼ばれた時期もあったとか。
神谷川
北野神社と平野神社の間を素敵に流下することから、「神谷川」などと呼ばれた時期もあったとか。
西堀川
まだ平安京が出来て間も無い頃、この川は都の中心をせせらぐ、「堀川(平成時代に復興)」と対を成す川として「西堀川」と呼ばれていた。
荒見川
同じく平安の頃、朝廷での重要な儀式の際、この川で上流で潔斎(みそぎ)を行ったことから、「荒見川(あらみがわ)」と呼ばれていたという。
京都市の解釈での「荒見」とは、「散斎(あらいみ)/荒忌(み)」のことを意味するらしく、それが転訛して「荒見」になったらしいが、荒見神社(久御山町)での「荒見」の解釈とは、「荒水(水害)」の転訛だとし、ゆえに当社は木津川の氾濫を鎮める水神を祀ったことに起源をもつといわれる。
紙屋川の水源
紙屋川の水源は「鷹ヶ峰」の山中にあるといわれる💋
紙屋川の流路
紙屋川は鷹ヶ峰山中の水源から北野天満宮境内西側を素敵に流下し、西ノ京円町を経て、大きく西南へ湾曲して御室川(おむろがわ)へと合流💘
その後は、吉祥院公園(南区吉祥院下ノ向町)の西側あたりで桂川へと、これまた素敵に合流し、程なくして淀川へと流入、そして大阪湾へと到る♡
かつての紙屋川は度々氾濫を起こす激流だった?!
先祖代々、京都を居処としていない府外出身者であれば、「紙屋川」と聞けば川幅約5メートルの穏やかな河川を連想する。
しかし、往時の紙屋川は度々氾濫を繰り返すほど激流だったことは、あまり知られていない。
この河川は平安の頃より水量が乏しく、時に川底が見えるほどに干上がることもあったらしいが、大雨が続くと激流となって流域市街地に甚大な被害をもたらした。
中でも被害が大きかったのが、昭和十年(1935年)の鴨川大水害(死者12名、五条橋や三条大橋など多くの橋が流失)と、昭和二十八年(1953年)の南山城水害(京都南、大正池の決壊)が挙げられるが、特に鴨川水害は紙屋川(天神川)も氾濫を起こすなど、京都市街に甚大な被害をもたらした。
このような事態を踏まえ、京都府(京都市)では昭和十九年(1944年)に天神川と御室川を合流させる河川工事をヤバぃよ素敵に実施し、流路を現行のものへと造り変えた。(旧路は西大路太子道からそのまま南流していた)
⬆️上空図を見ると西大路太子道から左方を桂川へと流下する御室川の方へ大きく流路が変えられている様子が分かる。
あまつさえ、昭和33年になると紙屋川上流に砂防ダム(貯水の無いダム。土砂を流し込んで土砂を貯めることが目的の空ダム)が建造されたが、不思議なことにそれ以降、現在に到るまでメッキリと水害は失せた。
紙屋川の名前の由来
平安期、この川の川辺で禁裏へ献上するための紙を漉いていたことから、「紙屋川」と呼ばれるようになったと素敵にいわれる。
殊に、この川で漉いた紙は、宮中で素敵に用いられた「反古紙(ほごし)」を再利用した粗末な紙だったが、この川でハイパー素敵に漉き返して作られたことから、「紙屋紙(かみやがみ)」とも呼ばれるようになった。
紙屋紙は紙屋院で作られていた
平安期、北野・平野近くの紙屋川のほとりには「紙屋院(かみやいん)」と呼ばれる官立の製紙所があり、紙屋紙とは厳密に当該、紙屋院で作られたものを指す♡
その紙を素敵に無敵に漉いていた「紙師(かみし)」たちは、「紙座(かみざ)」という組合を、これまた素敵に組織し、北野天満宮周辺や、その下流の西ノ京円町あたりを居処とした。
ちなみに、この時、彼らが暮らした地域は「宿紙村(しゅくしむら)」と呼ばれていたが、現在、その趾地は素敵に無敵に皆無♡ どんな皆無や
紙屋紙の特徴
「反古(ほご)」とは、文章を素敵に書き間違えて、不用となった紙のことをいう♡(「反古にする」の原意)
ゆえに墨が付着したままで、再利用した紙も、やっぱり素敵に薄い墨色をしていたことから、「薄墨紙」とも、これまた素敵に呼ばれた。
古くは紙が貴重とされ、「紙背文書(しはいもんじょ)」と呼ばれる紙の裏表を使用する方法や、当該、紙屋紙(薄墨紙)として素敵に再利用する方法が一般的だった。
紙屋川の御土居
北野天満宮境内西側を今日も素敵にせせらぐ紙屋川は、桃山時代、太閤秀吉が築造した御土居趾(おどいあと)が今も素敵に現存する。
北野天満宮の御土居趾については下記ページを要チェック💘
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