【龍安寺の石庭】4つの謎と意味を歴史からヒモ解き….たぃの❓

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京都 龍安寺は「世界遺産・古都京都の文化財」の一角を担う名刹として世界中にその名が知られています。

この龍安寺が世界中の人々の目にさらされることになったのは、1975年(昭和50年)に英国(イギリス)のエリザベス女王2世陛下夫妻が来日された時です。

エリザベス女王2世陛下夫妻は、桂離宮やこの京都 龍安寺へも訪問され、この石庭を見るなり、その均衡のとれた整然とした美しさに驚愕され「日本のロックガーデン」として世界中にニュースが流れたことに起因します。

以降、日本の侍や禅ブームが巻き起こり、世界中から観光客が訪れるようになり、様々な媒体で紹介され今日に至っています。

京都 龍安寺「石庭(方丈庭園)」【世界文化遺産】【国指定 史跡・特別名勝】

造営年

不明
推定:1536年(天文5年/室町時代後期)※戦国時代

大きさ(現在)

縦幅:約10.5メートル
横幅:約24メートル
面積:約248平方メートル(約75坪)

石の材質

緑色片岩、チャート(堆積岩)、変斑レイ岩、細粒花崗岩、石英片岩

石の産地

京都(丹波など)、和歌山県

壁の材質

油土塀(あぶらどべい/築地塀/ついじべい)※赤土に菜種油を混ぜて作った土塀

作者

不明

世界文化遺産「古都京都の文化財」登録年月日

1994年(平成6年)12月17日

史跡名勝天然記念物指定年月日

1924年(大正13年)12月9日

発願者

細川勝元
義天玄承(ぎてんげんしょう)




龍安寺「方丈庭園(石庭)」の読み方

方丈庭園(ほうじょうていえん

石庭(せきてい

龍安寺の読み方

龍安寺(りゅうあんじ)と読む方も多いのですが、正式には「りょうあんじ」と読む。

京都 龍安寺「石庭」の別名

実はこの龍安寺には古くからの別名が存在しており「虎の子渡し」や「七五三の庭」とも呼称されるようです。

「虎の子渡し」の由来・意味

「虎の子渡し」とは中国の故事で「虎は命をかけるほどの苦労をしてでも、子供を大事に育てる」の意味があります。

中国では虎が3匹の子を産むと必ず1匹は気の荒い子虎(一説では彪(ひょう))が産まれてくるという言い伝えがあり、その言い伝えになぞらえたような故事が以下のようなものになります。

「とある母虎」には3匹の子供がいましたが、この中に1匹だけ気の荒い子虎がいました。

ある時、母虎は川を渡って向こう岸まで行かねばならず、この時に気の荒い子虎を他の2匹と一緒に残すと、他の2匹が食べられてしまうだろうと考え、最後に気の荒い子虎を向こう岸まで運んだという話です。

母虎は子虎を1匹ずつしか背中に乗せることができない上、「気の荒い子虎」と「2匹の子虎」を一緒にしてはならないので、実は最初に1度「気の荒い子虎」を向こう岸まで運ばなければならないのです。

こうして、この母虎が悪戦苦闘しながら川を往復する姿と、子虎の様子がこの石庭の石の配置で表現されていると云われ、そんなことから「虎の子渡し」と呼ばれています。

実はもう1つ別名があり「七五三の庭」などとも呼称されています。

「七五三の庭」の由来・意味

「七五三」は、これは石庭の略称と言えます。

石庭は東側(入口側)から石を数えると5、2、3、2、3となり、5+2=7で「七」、3+2=「五」、残った3つの石で「三」で「七五三」となり、ここから由来がきてます。

ちなみにこの当時、中国から伝来した名器(珍しい器)などを飾りつける時、七・五・三の順番で飾りつけがされていたようで、ひょっとするとこれをヒントして根本となる石の配置が定められたのかも知れません。

また、このような七五三の庭はここ龍安寺の石庭だけではなく、付近に位置する「妙心寺」や「大徳寺」の庭園でも見ることができます。

このような呼称が成されるようになった年代は定かではありませんが、1736年の江戸時代、当時町医者であった山科道安なる人物が龍安寺の庭を観るなり「虎の子渡し」と呼んでいることから、少なくとも江戸時代以前からこれらの呼称が存在していたものと考えることができます。

京都 龍安寺の「4つの謎」

京都 龍安寺の寺伝によると、現在この石庭には「4つの謎」が隠されていると云われています。

 刻印の謎

 作庭の謎

 遠近の謎

 土塀の謎

以下では、これらの謎を説明した上でヒモ解いていきたいと思います。

石庭の石組(置石の配置)

まず京都 龍安寺の石庭には全部で15個、奇石が置かれています。

最奥となる西側の壁面から3個、2個、3個、2個、5個の合計15個です。

これらの石を取り囲むように京都産の白砂(白川砂)が撒かれ、その周囲を短冊状に削りとった「花崗岩(かこうがん)」で囲んでいます。

その花崗岩の向こうには「こけら葺き」の屋根を持つ「油土塀(あぶらどべい)」もしくは「築地塀(ついじべい)」と呼称される「土壁」がこれらを取り囲んでいます。

尚、油土塀の屋根は、色艶から見て割と新しく見えますが、これは1978年(昭和53年)に葺き替えられた屋根で、それ以前は瓦葺の屋根でした。

龍安寺「石庭」の石の配置図と材質・一覧

1:緑色片岩
2:チャート(堆積岩/たいせきがん)
3:緑色片岩
4:珪質頁岩(けいしつがん)※珪質頁岩が変異した石とも。
5:チャート
6:変斑レイ岩
7:緑色片岩
8:緑色片岩
9:細粒花崗岩
10:緑色片岩
11:緑色片岩
12:チャート
13:チャート
14:緑色片岩
15:石英片岩

諸説あるようですが、一説ではこれらの奇石群は、ただ置かれているのではなく、何かの法則に則って置かれていると云われています。

すなわち、1つ1つの石を見ただけでは、ただの石ころですが、これら石を遠くから離れて見ることで、はじめて何かの意味を成す構図だと云われています。

石と石の間隔を程よく離して配置すると視覚的な関係性は保てますが、石個々の関連性は保ちにくくなるのが通例です。

しかしこの龍安寺の石庭の石は、離れているにも関わらず、見事に個々の石同士の関連性が保たれています。

龍安寺が創建された室町時代といえば、平安時代以前から続いていた作庭様式も変わりつつあった時代背景があります。

「禅」の考え方がもてはやされ、その禅と関連性の深い「水墨画」が流行した時期です。

また、その水墨画に基づいた新たな作庭様式が確立しようとされていた混迷の時期でもあります。

これらの点を踏まえて考えても、よくこれだけの庭園を生み出したものだと言わざるを得ません。まさに奇跡(奇石)の庭園と言えます。

尚、11、12、13、14、15の5つの石に関しては一説によると、龍安寺の鎮守社「八幡宮」の神「八幡神」の依り代としての「影向石(ようこうせき/=神仏の依り代となる石)」として役割があるとの考察も成されています。

現在ではこれらの龍安寺・石庭の石の配置は天才庭師による仕事だと言い伝えられていますが、別の見方では遠近法を主体として、それほど悩むことなく適当に石を配したとの見方もあります。

ただ、最後に配置する石だけは全体と均等をとらなければならず、選定と配置に予想外に時間がかかってしまい、「苦労した」という感情のもと、石を配置した者はその石に自らの刻銘を刻んだと云われています。(刻銘ついては後述しています。)




石庭の庭園様式

龍安寺の石庭の作庭方式は、「枯山水(かれさんすい)」と呼ばれる作庭方式で、つまりは石を用いて「水」や「島」を表現したような庭になります。

この庭園を見れば分かりますが、15個の石と石の下に生えたコケ、そして15個の石を囲むうように白砂が敷き詰められています。

通常、借景(どこかの景色を真似る)を用いれば金閣寺の庭のように樹木が手植えされて、山を表現するため土が盛られたりします。

しかしこの庭園にはそれがまったくないので、作庭された意図が謎とされています。

つまり、どこかの景色を真似た庭園ではなく、何かを伝えるための庭園という解釈が成り立ちます。

石庭の石は何をもとにして配置されたのか?

この石庭は、一説では細川勝元が設計に携わったとも云われています。

勝元はこの庭園を作庭する際、何らかの意図に基づいて方角を定めて作庭を指示したと云われています。

この龍安寺は、「応仁の乱(1467年から1477年/室町時代)」と、「1797年(寛政9年/江戸時代後期)の火災」「1929年(昭和4年)」とで3度焼失しています。

このうち、1929年の焼失を除いた再建の都度、この石庭は微妙に角度や位置がズラされて再建されてきたと云われています。

作庭当初の方丈庭園には、現在と同じように白砂が敷き詰められていたそうですが、江戸期の火災後の再建では、白砂は敷き詰められず、ただ石だけが置かれていたようです。

そんなことから、江戸時代では同じ境内の「鏡容池」の方が有名だったようです。

その後、土が黒色に変色してきたため、景観を保つ意味で現在のような白砂が敷き詰められたと考えられています。

石庭はなぜ、この大きさと形状になったのか?

作庭当初の石庭と方丈の長さ

実は当初の石庭は、現在の石庭よりも西側に約1メートル、東側に約50㎝ほど広かったと云われています。

しかし、方丈自体は現在の西源院より移築された方丈よりも横幅が小さかったことが明らかにされています。

作庭当初の石庭と方丈の横の長さを比較してみた場合、東西双方に約5メートル、東西合わせて約10メートル近くも方丈からハミ出ていたそうです。

  • 作庭当初の方丈の横幅:約16メートル
  • 作庭当初の石庭の横幅:約25.5メートル

現在の石庭と方丈の長さ

現在の石庭は縦(縁側から石庭向こうの壁に向けて)が約12メートル、横幅(縁側)が約24メートルの長方形をしています。

また方丈は約13間もあり、現代風に訳すると約26メートル近くもあります。

  • 現在の方丈の横幅:約26メートル
  • 現在の石庭の横幅:約24メートル

以上の観点から考察を進めていくと、当初の方丈は現在の方丈よりも小さく、また、前方の石庭に対して、東西両端から約5メートルも内側に入っていたことが分かります。

これを図で表現すると、「方丈の中心部」と「石庭の東西両端」を「直線」で結ぶことができ、つまり、扇形の図が描けることになります。

ここから察っすることができる事実とは、当初は「方丈の中心部からのみ15個の石を観ることができたのではないか?」と、いう見方が成り立つことになります。

石庭はいったい何を表現しているのか?

 

これほど有名な石庭であるのにもかかわらず、実は「名のある名石」が一切、この庭には使用されていません。

つまり、観賞するための庭ではありますが、石庭を取り囲む質素な築地塀を含めて、どこか寂しぅぃ~感じが漂います。

ここから感じ取れることは、これは禅の境地を示しているものであり、誰かを接待して魅せるような庭園ではけっしてなく、禅への強い執着心とそれに比例する孤高の気高さがこの庭園から感じ取れます。

龍安寺が在籍する臨済宗は禅の境地を継承する宗派であり、この庭にはまさにその禅の境地が凝縮されているといえます。

尚、この石庭の石は15個存在しますが、ある一か所からでしか15個の石は見えなくなっており、これもおそらく作者の創作の意図が隠されているものと考えられています。

なぜ15個の石を極限まで見れなくしたのかについては謎です。

この他、龍安寺石庭を取り巻く土壁の高さに注目してみると1.90メートルあり、なんと!他の類似した庭園を持つ寺院の平均的な壁の高さの約半分ほどしかありません。

これは縁に正座する形で腰かけると、周囲の景色がよく観ることができるように計算されて造られているからだと考えることができます。

室町期の男性の身長の平均は約155センチから160センチほどだったので、座高が85センチから90センチほどになります。また、方丈の床下から床上までの高さが115センチメートルあり、双方を足すと200センチから205センチになります。

土壁よりわずか10センチから15センチ高いことになりますが、外の景色が見えるように石庭の背景として取り込んだものと考えることができます。

作庭された当初は現在のように土塀の向こうに木々がそれほど生い茂っておらず、東山の景観を一望できたと云われています。

土塀の高さに隠されたもう1つの秘密

「石の配置の仕方に遠近法が用いられている可能性がある」という説明をしましたが、もう1つ、龍安寺の石庭で遠近法が駆使されていると考えられる場所があります。

それが、向かって右側(入口から見ると正面)の土塀(油塀)です。

龍安寺石庭の油塀は2021年2月6日〜2022年3月18日まで修繕工事が実施されたが、往時と変わらず、一見すると他の土塀と同じように見える。

ただ、実のところ、手前の方が奥よりもおよそ50cm高く造られている。

手前から奥に行くにつれて土塀を低くしていくことで入口から見ると、石庭が実際よりも広く見えるという、絵画でいう遠近法を活用した造りになっているのです。

【補足】見れない石はどれ??

この石庭に訪れてパンフレットには15個の石があると記載があるにも関わらず、実際には14個しか石が観れないと感じた方も多いと思います。

見えなくなる石は主に東側(入口側)の最隅の石と、西側(最奥)手前の背の低い石になります。

是非、一度、ポケットグラス(顕微鏡)などを持参して観てください。

腹ただしいほど見えないので、何だか自分に腹がたってきます。




石庭の作庭時期っていつ??

この石庭の作庭の時期は不明とされていますが、推定では室町時代後期(戦国時代)と考えられています。

一昔前までは江戸時代に作庭されたとも考えられていましたが、近年の研究では1536年(天文5年)頃の作庭説が濃厚とされています。

作者は誰??

龍安寺石庭は作庭時期も未詳であり、作者も未詳とされる。本当に謎に包まれた庭園となる。

ただ、今から300年前の江戸時代までは、室町時代の絵師「相阿弥(そうあみ)」が作者だと考えられていた説もあります

しクぁし!

現在では、中央の壁ぎわの背の低い石にのみ「小太郎(こたろう)・清二郎(きよじろう)」という名前らしき陰刻が発見されていることから、この2人の人物が作者ではないか?とも考えられた。

ただ、その後の調べで、この2人は石をこの石庭へ運び入れた業者だったことが明らかにされた。

作庭したのは石立僧?

室町時代中期以前は、「石立僧(いしたてそう)」と呼ばれる作庭家も担う僧侶たちが、作庭を行っていましたが、室町時代中頃を過ぎたあたりから「山水河原者(さんすいかわらもの)」と呼ばれる職業が存在しており、これは作庭の際に工事を請け負った業者のことを指します。

現在では、雨水、風にさらされて、石の形状が従来とは微妙に異なり、そんなことから上述の2人の名前の刻銘が読み取りにくくなっています。

この他、上述の2人は石庭全体の管理もしていたと考えらえています。

尚、すでに上述していますが、直接の作者ではありませんが、一説では細川勝元もパトロンとして設計に携わったとも云われています。

えぇっ?!応仁の乱後の再建では東西の庭が繋がっていた?!

龍安寺と言えば「石庭(方丈庭園)」が有名ですが、この石庭の左側にも石庭の約半分くらいの庭園があり、名前を「東庭」と呼称します。

そしてなんと!応仁の乱後の再建時の龍安寺は、東庭と西の庭「石庭」が繋がっていたと云われています。

現在の龍安寺の東庭と石庭の間には、開かずの唐門・「勅使門(ちょくしもん)」があり、その後方に通路があります。

現在の通路や上述の勅使門および方丈(堂舎)は、江戸期の火災後の再建にて、龍安寺境内の塔頭・西源院(せいげんいん)から移築してきたものです。

つまり、勅使門に合わせて通路も再建したために従来の通路と比べて少し広くなっており、さらに壁が据えられ、東庭、石庭の双方から互いの庭が目視できない仕様になっています。

しかし、応仁の乱後の再建では、かろうじて簡易的な門と通路だけが造営され、通路には壁がなく、双方の庭が筒抜け状態で一望できたと云われています。

この事実は、豊臣秀吉が大勢を引き連れて龍安寺に訪れた際、東庭で待機していた家臣たちが当時、石庭の西側の最奥に自生していた枝垂桜(後述)が観れたとの記述が見つかっています。

えぇっ?!安土桃山時代には大きな枝垂桜が石庭に咲き誇っていた?!

上述した通り、なんと!安土桃山時代の龍安寺には、ちょうど最奥となる西側の土壁の壁面あたりに大きな枝垂桜が咲き誇っていたと伝えられています。

以後、あまりにも美しさに切れずにそのまま石庭内に放置され、江戸時代まで咲き誇っていたようです。

しかし江戸期に起きた火災によって焼失しています。

現在も木の根本部分だけは残っており、目視することができます。

15個の石が見える場所

実は石庭には15個の石が見えるポイントがあります。

その場所というのが石庭最奥(西側)の縁の手前、約1メートルくらいの場所です。

ただ、すべての石が観えるとはいえ、かろうじて見える石があります。

そのかろうじて見える石が東側壁面手前の石です。実際に観れば分かると思います。

しかし上述したように、石庭が作庭された当初は方丈内の中央からのみ15個の石が観れています。

その後、度重なる再建や改築の末、作庭当初の方丈はなく、位置がズレているので観るのが困難な状況にあります。

龍安寺へ行かれた際は是非!15個見ることができるポイントを探してみてください。

なお、石庭はオープン時間となる午前8時くらいに行くと空いていますが、午前9時を過ぎたあたりからポツポツと人が増え始め、15個みえる場所に他の人が陣取っているかも知れません。

探すのであれば朝8時前に龍安寺へ訪れて、8時のオープンと同時に石庭へ突入する方法をオススメします。

龍安寺・石庭の場所(地図)

龍安寺・石庭は山門をくぐり抜け、道なりに境内を直進した先に位置する「庫裏(くり)」から入った西側奥に位置します。

従来は勅使門を通ってそのまま方丈へ入ることができましたが、現在は庫裏が一般参拝者の出入口となり、拝観受付があります(拝観券の購入は山門脇の寺務所)。

入堂後は庫裏から方丈へ向かって通路を進んでいくことになります。

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