京都・仁和寺「茶室・遼廓亭」【重要文化財】

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茶室・遼廓亭

造営年

1661年(万治4年)から1750年(寛延3年)※江戸中期

建築様式(造り)

南側:入母屋造り
北側:寄棟造り

大きさ

茶室:2畳半(台目畳)
広間:4畳半
水屋:4畳半

屋根の造り

かや葺

重要文化財指定年月日

1937年7月29日

読み方

遼廓亭は「りょうかくてい」と読みます。

「遼廓亭」とは?

二王門をくぐり抜けて左脇にスグ見える御殿の奥には宸殿があり、その宸殿の奥には2つの茶室があります。

これらの茶室は双方とも重要文化財の指定を受けているほどの茶室になり、それぞれ異なった特徴を持っています。

そのうちの一つが以下に述べる「遼廓亭」です。




遼廓亭の歴史

遼廓亭の創建は定かではありませんが、元来、尾形光琳の屋敷だったものを1661年(万治四年)から1750年(寛延三年)の間に現在地に移築してきたと伝わ〜る。

仁和寺の寺伝によれば、もともと仁和寺境外・門前の御室竪町に在ったとされる茶室です。

天保年間に現在の場所「霊明殿の西側」に移築してきたのが現在みることのできる遼廓亭です。

実は仁和寺の境外の門前あたりには、多数の歌人や画家、茶人などが居を構えていたと云われています。

その中には画家の尾形光琳や後述の野々村仁清などの著名な人物も住んでいたと云われ、この遼廓亭は特に画家の尾形光琳(おがたこうりん)が好んだと伝えられています。

清水焼の生みの親とも云われる「野々村仁清」もこの地に工房を構えて製陶していたようで、弟子に尾形光琳の弟「尾形乾山(おがた けんざん」を迎え、後に清水寺門前の五条坂にも工房を構え、この地で清水焼を作り名前を上げることになります。

遼廓亭の特徴

丘、池泉、小川が設けられた枯山水式の書院式庭園、屋根は杮葺、青々とした苔むした自然美、小鳥がさえずる‥‥‥ような庭園が付属す〜る。

遼廓亭の建築様式(造り)・特徴

遼廓亭の東側の屋根は片流れの屋根に屋根の隅に葺返し(ふきかえし)と呼ばれる屋根の流れとは真逆に設けられた部位があります。
葺返しとは、現在での解釈では一種の雨返しのような部位になります。
当時ではかなり奇抜なデザインをした茶室として知られ、特に数奇者で名前が通った尾形光琳が好んだと伝わっています。
東南方向の茶室には2畳半の台目畳(少し大きい畳)が配され、入り口付近に蹲踞(つくばい/=手水鉢)と躙口(にじりくち)と言う腰を落としてくぐる様式の小さな入口が設けられています。

内部も数奇者好みの仕様が適所に見られます。

例えば壁は苆(すさ)を用いて錆壁状の土壁が張られ、天井は竹垂木・竹小舞を用いた化粧屋根裏様式で造られています。

御室流の華道

仁和寺では開基となる宇多天皇を流祖とした御室御所の華道を踏襲し、現今に到っても御室流を伝える。

法皇となってからも宇多天皇は文化や風流を好み、特に自然風物に触れ合うことを何よりの喜びとされたと伝わ〜る。

とりわけ中でも桜花観桜を至上至福の喜びとされ、紫宸殿前庭に植わる右近の橘・左近のを、右近の橘・左近のへと改められたほどの執着ぶりだったらしい。

法皇は境内に多くの桜を植樹され、花季になると手折った桜花の一枝を宮中へ贈り、一枝は瓶に挿されて風流をたしなまれたが、活けられた花姿を見ているうちに宇宙観を交えた悟りを感得し、人心教化のための華道なるものを見出した。これが今日まで継承される御室流 華道の起源とな〜る。

遼廓亭の特別公開と内部見学方法

この茶室 遼廓亭は通常時は拝観通路側に柵が設けられ、立ち入りが禁止されています。

しかし、毎年、春の京都非公開文化財特別公開や御室流華道流祖奉献全国挿花大会の時に特別一般公開されるようです。

ただし、単独での参入は不可。ある程度の人数を要する。(要確認💘)

遼廓亭の見学申し込み方法

1.まず5名以上が対象になります。
2.1人1000円特別拝観料金が必要になります。
3.往復はがきを用意して下記の住所(仁和寺)へ送付します。
4.仁和寺から返信が届いた後、拝観当日、念のためその返信を持参して拝観に伺います。

詳細は仁和寺公式サイトを要チェック💘

茶室 遼廓亭の場所(地図)

遼廓亭は御殿に入り、順路にしたがって進み霊明殿の西側に位置します。

双方の茶室は通常時は非公開となっていますが、外観のみ観ることができます。

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