金閣寺舎利殿「鳳凰」
造立年
- 1397年(応永4年)※1代目:鳳凰
- 1955年(昭和30年)※2代目:鳳凰
- 1987年(昭和62年)※3代目:鳳凰
像高
- 約108cm
作者
- 不明
発願者
- 足利義満
項・一覧
金閣のてっぺん(屋根の上)に君臨する鳥の名前
金閣、舎利殿の正面は南を向いています。
三層の中央には、「究竟頂(くっきょうちょう)」と書かれた後小松天皇が書いた額が掛けられています。
この額のさらに上にある、こけら葺きの屋根のてっぺんには、「金色に輝く鳥」が2本の足で立っています。
この鳥は「鳳凰(ほうおう)」と呼ばれる想像上の生き物で、金色の台座の上で、鏡湖池を見渡しています。
しかしこの鳳凰、義満公が権力を示すために建てたとされる都を見下ろす位置に建つ金色の宮殿「舎利殿」に、はたしてなんの思惑もなく、ただの飾りとして飾り付けたのでしょうか?
以下では、この金閣寺舎利殿の屋根の頂きに据えられた鳳凰がもつ意味や謎・秘密についてせまってみたいと思います。
ところで・・「鳳凰」とは?
鳳凰とは中国で誕生した伝説上の鳥です。
中国では良いことが起こる兆しの鳥として吉鳥として崇められいます。
身体の全面は「麟(りん)」、後部は「鹿(しか)」、「頸(くび)は蛇」、「尾は魚」、「背は亀」、「顎(あご)は燕(つばめ)」、「くちばしは鶏」といった部位ごとに別々の生物が合わさっています。
また羽が5色で虹色に光り輝き五光が差しています。中国では「四霊(しれい)」の1種とも云われております。
中国の「四霊」一覧
麟(りん/麒麟)
鳳(ほう/鳳凰)
亀(き/霊亀)
竜(りゅう/応竜)
金閣の上にいるのは本当に鳳凰?実は朱雀?
想像上の生き物である鳳凰ですが、名前は聞いたことがあるけれど、どんな鳥かはわからないという方も多いと思います。
しかし、鳳凰は日本人にとって、とても身近な鳥なのです。
鳳凰の姿を知りたい方は、1万円札をご用意ください。
福沢諭吉の裏に右を向いた鳥が立っています。これ鳳凰ちゃんなんです。
めでたいことを予兆し飛んでくるという鳳凰が、日本の最高紙幣の絵になっているのです。
ちなみに、この1万円札の鳳凰は、10円玉に描かれている平等院鳳凰堂の屋根に立つ鳳凰像と同じ鳳凰です。
平等院鳳凰堂とは、時の摂政であった「藤原頼道」が建立した寺院です。
金閣の鳳凰も、平等院の鳳凰の特徴を受け継いでいると言われています。
この根拠とは、どちらの鳳凰にも首の後ろに「宝玉(ほうぎょく)」が取り付けられているからです。
実は、鳳凰には雌雄の性別があり、カップルで造立されることが多いので、金閣の屋根の鳥を「朱雀(すざく)」だと言う説もあります。
しかし時代を経る中での考察において、平等院の鳳凰像と類似している点が多いことから、今では「紛れもなく鳳凰である」と考えられます。
金閣寺の鳳凰の真の意味とは?
自らの息子が次代の天皇(日本の王)となることを予言したもの
実は、義満が存命中の室町期に、時の天皇であった「後小松天皇」による、21日間という長期の行幸が金閣寺で行われています。
期間中は、世阿弥による能や舟遊び、蹴鞠、和歌会など、盛大な宴が催されました。
この時に、義満の次男である義嗣(よしつぐ)は、後小松天皇から盃(さかずき)をうけたまわり、行幸中に官位が何度も上がったそうです。
この行幸は、義満が寵愛していた義嗣を次期将軍、さらには天皇の座に据えるために催されたものなのではないか?・・と言われています。
上述のとおり、鳳凰は天子の出現を予言するものです。
そう考えると義満は、金閣に新たな天子、義嗣が国の長になることを、予言させたかったのかもしれません。
しかし残念ながら、義満の死後、義嗣は兄の義持により殺害され、その願いは儚くも散り散りになってしまいます。
もう1つの金閣の鳳凰の意味合いとして有力な考察があります。
その考察とは「次期将軍や天皇の登場を予言する」というのは考え過ぎで、同じように屋根の上にいる「シーサー」や「シャチホコ」の様に、「単に金閣を災いから守る守り神」であったのかもしれません。
つまりのところ、鳳凰が金閣の屋根の上にある真相は現代に至っても明かされておらず、謎のままと言うわけです。
もっとも徳の高いすぐれた王(帝)を誇示する象徴
鳳凰については、上述でも書きましたが、めでたいことを予兆する生き物で「瑞鳥(ずいちょう)」と謂われています。
つまり、平和や繁栄を願い、荒んだ心がはびこる世の中を救う鳥として、鳳凰を降臨させたのでしょう。
ただ、吉兆を願うなら、同じ瑞鳥の種である「鶴」や「タンチョウ」でもよかったのではないでしょうか。
実は鳳凰は「聖徳の天子の兆し」だとも言われています。
つまり、鳳凰が舞い降りたということは「もっとも徳の高いすぐれた帝がここにいますよ」という証なのです。
摂関政治で栄華を極めた藤原頼道ですから、その権威を誇示するように「平等院鳳凰堂」を建てるのも分かる気がします。
鳳凰は四神!金閣舎利殿を守護している
京都御所の位置する平安京は四神の発想を取り入れて造営されていると言われており、考え方としてはこれらの四神もしくは四獣に京都の周囲を守護してもらっていると位置付けられます。
そのことを踏まえると金閣舎利殿を南西の脅威から護りたかったとも考えられます。
ただ、金閣舎利殿の南西の方角にはこれといった脅威じみた何かを示唆するようなものは見当たらないことから、単に呪い(まじない)として据えられたという見方も無きにしも非ずです。
舎利殿(金閣寺)は南面を向いている理由は「天子(王)の宮殿であることを示唆」
金閣寺は別名で「北山殿」とも称されましたが、この理由は京都の中心(御所)から北側の山間に位置するからです。
すなわち京都の中心を見下ろしていることになります。
古来、天子(天皇)は南面を向けて座するのが常識とされています。すなわち天子の北側には天子を象徴する北極星しかないわけであり、天子、いわゆる天皇は常に北を背にしています。
これは自らと自らの一族を日本の王もしくはその王族であると捉え、屋根の頂に鳳凰を飾り立てることによって、その王が住む宮殿であることを示唆しているとも考えられます。
すなわち王であるということを誇示しているということです。
ちなみに付随した話を述べると、現今は常にそうとは限らないようですが、実際に日本においても天皇から見て左側、旧式で言えば右大臣が優位になります。
この理由は太陽が昇る方角である東側が左側になるからです。
えぇっ?!室町期・創建時の鳳凰像は現存していた!!
1950(昭和25)年7月、後述しますが、鹿苑寺の修行僧が放火したことにより、金閣舎利殿は全焼してしまいます。
実はこの時、幸運にも鳳凰像は無傷だったことはあまり知られていません。
詳しくは、この時の鳳凰像は明治時代に執り行われた金閣・舎利殿の改修(修理)のために外されていたのです。
このため、室町期の創建当初の鳳凰像は火事を逃れ、今も大切に保管されています。
ただ、この鳳凰の色は黒く、金箔はクソほどハゲてしまっており、昔の輝きは残っていません。
金閣・舎利殿の鳳凰の歴史(年表)と「現在の鳳凰は何代目?」
上述したように初代鳳凰は室町期の創建当初から舎利殿に据えられた鳳凰ですが、1904年(明治37年)に尾の部位が折れ曲がっていたので外されています。
1467年(応仁元年)〜1478年(文明9年)に勃発した京都史上最大の騒乱とも言われる応仁の乱も際は、この金閣寺の伽藍に西軍の陣が敷かれ、当時境内に建っていた数々のお堂は焼失しています。
そんな中、奇跡的にこの舎利殿は類焼を免れ、つまり、この鳳凰を無傷で事なきを得ています。
しかし、1950年(昭和25年)に当時の鹿苑寺(金閣寺)住職であった村上慈海(むらかみじかい)の愛弟子「林承賢」が金閣・舎利殿に放火し舎利殿が炎上してしまいます。
この事件は当時、大きな話題となり新聞各社の三面記事を独占しました。
この後、罪の意識にさいなまれた住職・村上慈海の托鉢などの決死の勧進活動のおかげで金閣再建のための浄財約3000万円が集められ1955年(昭和30年)金閣再建が見事に成ります。
この1955年(昭和30年)の金閣・舎利殿再建の際に鳳凰も2代目の鳳凰と取り替えられています。
しかし、この昭和30年の金閣・舎利殿再建は、金箔の厚さが少なかったことと、金箔を押すための敷材(接着剤)となる漆(うるし)が紫外線によって劣化してしまい、結果、金箔が剥がれしまします。
後に「黒閣寺」とまで呼ばれるほどに金箔が剥がれ、現在の銀閣寺と間違うまでの状態にまで晒されることとなります。
次の再建計画が成ったのが1987年(昭和62年)です。この再建では金箔の厚さを増やして金箔を貼り直し、以後、「金閣を600年は持たせる」という強い目標のもとで計画が成っています。
この再建の際にも鳳凰が取り替えられています。
よって現在の鳳凰は「3代目の鳳凰」となります。
立派な翼を広げて、翼の先端を上にあげ、脚は肩幅に広げて仁王立ちし、まっすぐ前を見つめています。
このように鳳凰の凛々しい姿は、義満亡き後も金閣を守り抜こうとする番人としての威厳が感じられます。
金閣寺・鳳凰の歴史(年表)
では、上述の平等院の鳳凰をふまえ、金閣の鳳凰について少し考えてみましょう。
平等院と同じように平和を願って置かれたのでしょうか。
義満が自分こそが徳の高い天子だと誇示したかったのでしょうか。
これらを証明するためには、金閣と義満の歴史をたどってみる必要があります。
年 | 歴史 |
---|---|
1368年 | 義満が征夷大将軍になる |
1394年 | 将軍職を、義持に継ぎ、太政大臣になる |
1395年 | 義満が出家する |
1397年 | 義満が遣明使を派遣する |
1398年 | 金閣の完成 |
1404年 | 日明貿易の開始 |
1408年 | 金閣に後小松天皇が行幸する→義満没 |
1904年 | 金閣寺(鹿苑寺)の改修工事が開始される。1代目(初代)鳳凰取り外し2代目鳳凰と交換される。 |
1906年 | 金閣寺(鹿苑寺)の改修工事が完了する。室町創建時の1代目鳳凰を取り外し2代目鳳凰と交換。 |
1950年 | 金閣寺の見習い僧侶であり大谷大学学生の林承賢が金閣舎利殿を放火。舎利殿はもとより内部安置の足利義満公の木像(当時国宝)、観音菩薩像、阿弥陀如来像、仏教経巻など文化財6点も灰燼に帰しています。 |
1952年〜1955年 | 金閣寺(鹿苑寺)の再建工事開始。2代目鳳凰を取り外し3代目鳳凰と交換。 |
1986年〜1987年 | 金閣舎利殿の「昭和大修復」が行われる。このとき鳳凰は取り替えられておらず簡易的な修復が行われています。 |
この時代の変遷を見ると金閣寺の鳳凰は単独で外されることはなく、舎利殿の改修工事のときに交換されていることが分かります。
義満は将軍を38歳という若さで退いて、長男・義嗣(よしつぐ)に将軍位を譲っています。
これは、金閣を建てる前です。
もし義満が、自分は徳の高い将軍であることを誇示するために鳳凰を置いたのだとしたら、金閣を建てる前に将軍職を離れるでしょうか。
また、将軍を辞めた後、隠居したかといえばそうではなく、明に使いを派遣したり、日明貿易を行ったり、積極的に外交を行っています。
ちなみにこの金閣は、明からの使節団の歓迎の場として、公的な役割も果たしていました。
しかし、義満は将軍職を辞してからは禅宗、天台宗、華厳宗などの仏門に入っており、信仰心の強さから金閣に鳳凰を置くことで、世間に平和をもたらそうとしたとも考えられます。
ただ、本当に世界に平和をもたらしいと言うなら、このように貿易を行い自らの冨を増やすでしょうか。
現在の有力説としては、将軍職を息子に譲ることで自らは将軍や天皇を超越した「日本国の王」になろうとしたのではないか?と考えられています。
その証拠となるのがこの金閣・舎利殿ときょう子ちゃんで・・あぁ間違い!「鏡湖池」!!です。ふぅ~ギリセーフ
これら金閣・舎利殿と鏡湖池には義満の心境が顕著に表現されています。
ド派手な金色の舎利殿から日本の王として、鏡湖池に浮かぶ日本列島を模した島々を眺めて、いったいどのようんなことを考えていたのでしょうか。
1代目・2代目の鳳凰は何処に保管してあるの??
1代目の鳳凰は銅製の金色の鳳凰です。現在は金閣寺の境内にて保管されています。
2代目の方法も同じく金色の鳳凰で、現在も同じく金閣寺の境内の保管庫にて安置されています。
いずれも京都市の文化財指定を受けていますので、整った環境で安置されているようですが、残念ながら一般公開する予定はないとのことです。残念です。
尚、1代目の鳳凰は唯一、金閣寺創建当初の遺品となります。
クソほど真っ黒色の鳳凰ですが、創建当初は光り輝く金色であったと云われております。
【補足】平等院鳳凰堂から考察する金閣寺の尺度
なぜ、金閣の上に鳳凰が建てられたのか考えてみたいと思いますが、それを考える時に金閣の鳳凰によく似た、平等院の鳳凰のことを忘れてはいけません。
1052年、父である藤原道長の別荘をゆずり受けた藤原頼道が、宇治の土地に「阿弥陀堂」を建てました。
それが世界遺産にも登録される「平等院鳳凰堂」です。
この平等院鳳凰堂は「末法思想(まっぽうしそう)」の影響を受けて造られたものです。
「末法思想」とは、お釈迦様が亡くなってから長い時間が立つと仏教の力が衰えて、世の中がすたれていくという考え方です。
1052年は、お釈迦様が亡くなってちょうど1500年になる年で、当時、頻発していた「飢餓」や「疫病」は、この末法のせいだと考えられていました。
そこで、貴族から庶民まで、人々は安らかに極楽浄土へ行けるように「浄土信仰」を熱心に信仰したのです。
藤原頼道も浄土信仰の一人であり、熱心な信仰心から「阿弥陀如来像」を安置する「阿弥陀堂(鳳凰堂)」を建てました。
この阿弥陀堂は建物全体が、鳳凰の姿形を模して造られており、さらに浄土式の庭園の中心に建っています。
これは、「神仙蓬莱の世界(中国の蓬莱山に住むといわれる仙人の世界のこと)」をあらわしたとされ、金閣寺の庭園に共通するところがあります。
金閣寺の境内地図と観光スポット一覧
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