京都・金閣寺(鹿苑寺)と「西園寺家」

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京都・金閣寺(鹿苑寺)と「西園寺家」

西園寺公経↑西園寺公経像

西園寺家金閣寺

金閣寺の敷地はもともと、西園寺家が所有しており、そこには「北山第」という豪勢な山荘が建てられていました。

西園寺家は平安時代に権力を持っていた一族であり、藤原氏の遠縁(藤原氏北家)にあたります。

「西園寺公経(さいおんじきんつね)」が、北山の土地を手に入れて、邸宅として「西園寺」を建てたのです。

分かりやすく言うと、藤原公経が京都北山の土地に北山第(北山殿)という山荘を造営して、この山荘の敷地の中に「西園寺」という寺院を造営します。

この時、この西園寺という寺院の名前をとり、自らの姓も藤原から「西園寺」と名乗るようになっています。




「北山第」を造った西園寺家

西園寺家・家紋↑西園寺家の家紋

西園寺家はもともと名の知れた家柄ではありませんでしたが、西園寺公経が、源頼朝の娘を妻としたのちに、朝廷の中心的人物になります。

また鎌倉幕府とのつながりがあったため、1221年(承久3年)に起こった「承久の乱(じょうきゅうのらん)」の時に、執権・北条泰時の味方につきました。

なお、承久の乱とは、後鳥羽上皇と鎌倉幕府との間に勃発した戦争のことです。

承久の乱は、北条泰時の大勝利で終わり、公経は京都御所の幕内(朝廷)の中で鎌倉幕府を代表する権力者となったのです。

その後まもなくの1222年(貞応元年)には、太政大臣にまで昇進しています。

その後も公経は、絶大な権力を誇示し地位と巨万の冨を築き上げ、北山の地に類まれな豪邸を建てます。

そして、この時建てた豪邸こそが、後の世で「北山第(北山殿)」と呼称される山荘になります。

「北山第」

「北山第」とは「きたやまてい」と読みます。また北山殿は「きたやまどの」と読みます。

北山第とは、西園寺家の別荘を意味し、同時に後に足利義満公が造営した金閣寺の前身である「北山第(北山殿)」のことをも指します。

かつての西園寺家の別荘である「北山第」には、広い池があり大きな滝がそそぎ、滝のもとには「不動堂」が建っていました。

そして本堂、功徳蔵院、妙音堂、五大堂、成就心院、法水院、無量光院などの堂舎や殿舎が建ち並びます。

これらの建物の北には寝殿である北山第が建てられて、公経らの住まいとしていました。

当時では類を見ない大豪邸です。

この山荘・北山第の美しさ豪華さは、当時の代表的な古文書である「増鏡(ますかがみ)」や、藤原定家の「明月記(めいげつき )」にも記されています。

その後、後醍醐天皇によって鎌倉幕府が倒されると、後醍醐天皇中心の政治に成り代わります。

この時、鎌倉幕府の力を背に受けて栄華を誇った西園寺家は次第に疎遠され、発言力を失うと同時に権力や財力までもを失っていきます。

そして北山第もかつて栄華を極めていた頃の面影をなくしすっかりと荒廃しきっていました。

この後、足利尊氏が室町幕府を樹立します。

それから3代目の将軍足利義満公の時代になった頃、当時、義満公は河内(大阪府)に所領を持っており、この河内国の所領と西園寺家の北山第を交換してくれるよう西園寺家に打診します。

そしてこの交換が受け入れられ、義満公はかつての西園寺家の北山第の跡地に山荘を造営しこの山荘に西園寺家と同じ「北山第(北山殿)」と命名します。

しかし現在も西園寺家が北山第を所有していた頃の西園寺の遺構として、「滝の跡」「池」「安民沢」「不動堂の不動明王像」などが現存しており、西園寺時代の面影をそっと現在に伝えています。

【豆知識】現代の西園寺家

西園寺家は北山第(北山殿)造営と共に栄華を極め、現在の四国にも西園寺家と分家となる支流を置きました。

つまりここで「西園寺・宗家」と「伊予(四国)・西園寺家」と2つの西園寺家が存在することになります。

現在では伊予・西園寺家は廃絶し、宗家のみが名門・西園寺家を世襲し、当主を排出しています。

西園寺家は、その後も優秀な当主を排出し、有名な人物に「西園寺公望(さいおんじきんもち)」がいます。

西園寺公望は伊藤博文のブレーンとして活躍し、内閣総理大臣を務めています。

その後も、名門・西園寺家として西園寺の名前が受け継がれています。

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