京都・金閣寺(鹿苑寺)と「北山文化と東山文化の違い」

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京都・金閣寺(鹿苑寺)と「北山文化と東山文化の違い」

京都・金閣寺の見どころ【その3】「鏡湖池(きょうこち)」

北山文化の「核」・金閣寺

「北山文化」は「きたやまぶんか」と読みます。

室町時代初期に発展した文化を北山文化といいます。

北山文化を例える時に、よく「もともとの公家文化に、新しい武家文化が融合した文化である」と言われます。

北山文化の「北山」という名前は、足利義満の造り上げた邸宅が北山殿と呼ばれたことに由来しています。

そんなことから、「衣笠山」を含むこの地域一帯は、「北山」と呼称されていました。

この北山文化とよく比較されるのが、足利義政の時代に開花した「東山文化」です。




北山文化の特徴

金閣・舎利殿

北山文化の代表的な特徴として、室町期の黄金時代の象徴となった「金閣」があります。

金閣とは、ご存知、1400年(室町期)頃に足利義満が完成させた金色の邸宅です。

金閣の特徴として、その建築様式を見てみると、初層は公家の生活様式に則った「寝殿造り」であり、二層目は武家の生活様式である「武家様式」、三層目は「禅宗様式」の造りになっています。

また、天皇(朝廷)の権威を無視し「ないがしろ」にするようなド派手な金箔を塗りたくった金色の建物でもあります。

少し、当時の室町期を想像してみてください。

生活様式1つとっても、貴族と庶民との間に大きな隔たりがあった時代に、このようなド派手な金色の建物が登場するワケです。

おそらく、当時の人々は腰を抜かしたハズです。

つまり金閣を見ているだけでも、足利義満がどれほどの権力者であったのかが、一目瞭然で分かる結果となります。

会所

北山文化の大きな特徴として、後世の武家中心の社会を創る上での礎となるような発想がたくさん出ています。

そのうちの1つに会所があります。

義満公は、室町幕府を京都室町北路通り沿いに移した後、「室町第」や「室町殿」と命名し、幕府の敷地内に「会所」を設けています。

この会所が武家で初めて出現したのが、この室町第(室町殿)であると伝えられています。

後に、この会所は戦国時代、安土桃山時代に変貌を遂げ、現在までに伝わる「茶室」の原型となっていきます。

北山文化と能楽

北山文化では五山文学や水墨画が流行するなど、素朴ながらも奥深い美しさの漂う禅宗の文化がみられます。

五山文学とは、鎌倉時代の末期に中国の「宋(北宋・南宋)」から伝来した「漢字」や「禅の作法」のことを言います。

つまり、この時代は中国大陸との交易が盛んな時代でもあったので、中国を通して西洋の文化なども日本へ流入した時代でもあります。

中でも金閣寺の関わりの深いものが「能楽(のうがく)」です。

「能楽」とは、別名・「猿楽(さるがく)」とも呼称され、「狂言(きょうげん)」と呼称されるホニョホニョ語を叫びながら、「能」と呼称されるスローで眠たくなるような動作の踊りを踊ることです。

実は日本にも、奈良時代から伝わる猿楽の前身となる舞踊がありましたが、この時代に中国や西洋から「踊りの様式」が伝来し上述のような日本独自の能楽が誕生しています。

なお、近世に至っては能楽は日本が世界に誇る「舞踊・舞楽」であり、世界遺産と対等となる「世界ユネスコ無形文化遺産」に登録されています。

話は戻りますが、1408年3月に、後小松天皇が、金閣寺へ行幸し盛大な「宴(うたげ)」が催されています。

この「宴」では、上述の世阿弥たちが招待を受け、金閣で「能」を舞っています。

この時、足利義満は能楽師であった「観阿弥・世阿弥」を大変気に入り寵愛しています。

※補足:義満はこの2ヶ月後に落命しています。

この時、天皇が「能」を御覧になったことからウワサとなって広まり、「能」が世間にも認められ流行をみせていったのです。

世阿弥たちが、能楽を大成させたことに、義満と金閣は一役買っていたと言ってよいでしょう。




【豆知識】東山文化と北山文化の違い

京都・銀閣寺実は、「東山文化(ひがしやまぶんか)」と言う言葉の語源は、義満が創造した「北山文化」と比較対象とされて誕生しています。

一般的に東山文化とは「京都の東側に建立された銀閣寺(慈照寺)を創建した足利義政の頃の時代」を指します。

一方、北山文化とは、「京都の北山を中心にして栄えた文化として足利義満公の頃の時代」を指します。

北山文化と東山文化の違いはハッキリとしています。

北山文化

北山文化は義満公の思想を中心にして考えられた文化で、公家中心の文化様式から脱却し武家中心の文化様式へ変貌を遂げさせようと義満公が行った施策の時代です。

この時代はまだ公家中心の文化様式が中心で公家(貴族)に利益がもたらされる仕組みでした。

このシステムを壊し、武士に利益がもたらされるように世の中の仕組みを変えようとしたのが足利義満です。

東山文化

東山文化は、義満公が存命であった時代から80年近く経た後の時代の様式を指します。

つまり足利幕府8代将軍 「足利義政」の頃の時代です。

この頃になると義満公が行った施策が花を咲かせ、公家中心の文化から武家中心の文化へ変貌と遂げています。

公家様式を取り入れた独自文化である「武家様式」が誕生し、武家様式は庶民層にまで広く受け入れられるようになり、日本全土が新しい文化に目覚めた時代でもあります。

ここでの公家様式とは「京都の文化」を指し、その公家様式が武家様式と融合し独自の武家様式が生まれ幅広く庶民層にまで知れ渡りました。

ここで言う「京都の文化」とは、貴族の1日の生活ぶりを参考とした、茶道(わび・さび)・日本庭園・舞(踊り)・道具・衣装など数多くの文化様式のことです。

京都の文化が日本中に広まった理由とは、後に「応仁の乱(京都が炎上)」の火種ともなった、幕臣同士の権力争いに起因し、貴族やその一族が日本各地へ逃げたためです。

日本各地の守護代や権力者は、都から逃げて来た貴族を自らの勢力圏に抱え込むことで背面に力を得たのです。

しかし、その一方で日本中の民は貧困し、本願寺を代表とする一向宗が勢力を増大し「一揆」を代表とした暴動が生まれたのも事実です。

すなわち、戦乱の時代、・・つまり、戦国時代の到来の礎となっています。

しかし一方では、庶民と貴族文化の融合によって、庶民層にも「漢字書き(文字書き)」などが広まりをみせ、新たな文化様式が誕生した日本史上にとっても貴重な文化(時期)でもあります。

それで違いとは?

以上のことから、「公家中心の文化⇒北山文化」、「武家様式+公家様式=独自の武家様式⇒東山文化」と、例えることができます。

ちなみに東山文化と北山文化を合わせて「室町文化」とも呼称されます。

「東山文化」と言う言葉が誕生したのは驚くことに、なんと!昭和の初頭に生まれています。

つまり、昭和の初め頃までは、東山文化と言う言葉がなかったことになります。

おそらく時代が動いた時期を後世で見定めていくうちに学説が登場し、両者を分ける動きが出たため分けられたと考えらえます。

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