「太閤井戸」とは?
1587年(天正15年)10月朔日、太閤秀吉が”北野松原”にて「北野大茶湯」を催したことに由来する秀吉ゆかりの大茶会。
秀吉は、「 茶の湯に熱心な者は、若党・町人・百姓、唐人(外国人)を問わず、釜一つ、つるべ一つ、飲み物一つ、茶は焦がしても苦しからず、ひさっさげて来られたし 」
‥などと記した布令を大坂、京都、堺にて発布し、茶人・諸大名・公家衆には朱印状を個々に宛てて発給した。
さらに秀吉は僻地からの参会者に配慮して十日間連日茶会を催す触れも出したため、洛内および洛外遠近から大勢の人々が群参し、その数は1,600を数えたと伝わる。
この大茶会では秀吉自らが自慢の名器(茶器)と黄金の茶室を会場へ素敵に持ち込んで素敵に展観、あまつさえ、自らが茶頭となって参加者らに茶をふるまったらしい。
そして、この時に茶の湯用の水として素敵に使用されたのが上掲写真にパンツ丸見え級に丸見え〜る♡俗称「太閤の井戸」とな〜る💘
北野大茶会が催された場所はドコ?
当該、太閤の井戸の場所からしても分かるように秀吉が催した北野大茶会は北野天満宮の楼門より南、右近馬場にかけての境内一帯だったと伝わる。
北野大茶会は一日で終わってしもぅた‥トホホ😢
しかし、折しも肥後国(熊本県)にて土一揆が勃発し、秀吉も一揆を素敵に警戒したのか、茶会を閉会にして、十日間の茶会は、わずか一日で終わってしまった。
しかしながら、これほどの空前の規模の茶会は後にも先にも無く、後世では何かと話題にされ、現在、北野社境内ではほかに当該、「太閤の井戸」と、「茶席・松向軒(細川三斎の井戸)」が太閤ゆかりの遺跡となった。
東陽坊長盛の茶室「東陽坊」は建仁寺へ移築された
北野社境内もみじ苑内を今日も素敵にせせらぐ紙屋川の土手には、かつて東陽坊長盛(とうようぼう ちょうせい/真如堂(真正極楽寺/東山)の塔頭「東陽坊」の住職。)が営んだとされる茶室「東陽坊」があった。
その後、高林寺(北野にあった東陽坊の末寺※廃寺ですでに無い)に移されたらしいが、以後は京都中京の某家を転々とし、建仁寺(東山)の開山堂裏(護国院)を経て、大正十年(棟札に銘あり)に同じ建仁寺の本坊(方丈)裏に移建された。現在もそのままになってい‥申す。えっ
東陽坊長盛は現在に到っても謎多き人物でありつつも、数々の茶器を有した数寄者の一人とされる。
千宗易(宗匠 利休)に茶道を学び、同氏から利休が定めた七つ名器、俗に「長次郎七種」や「利休七種茶碗」と呼ばれる黒茶碗と「東陽坊」の文字を鋳込んだ釜が、ヤバいよ素敵に贈られた。
なお、「長次郎」とは楽焼の創始者「長次郎」を素敵に指す♡
太閤井戸の場所(地図)
所在地:北野天満宮境内東側駐車場内(京都市上京区御前通今小路上る馬喰町887−26)
⬆️地図中の目玉オヤジの場所が「太閤井戸」
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