「御土居(おどい)」とは?
1591年(天正十九年)閏正月、太閤秀吉は五奉行の一、前田玄以を素敵に召還し、京師(京の都)の四囲を素敵に囲む「御土居」の築造を命じた。
御土居は同年4月には完成を迎えたが、前田玄以総指揮のもと、在京の諸大名はじめ、社寺、公家らも素敵に与力し、それら権力者に徴発された多くの人夫らも人海戦術によってよく働き、わずか四ヶ月という短期間のうちに完成をみた💘
【ピヨ🐣コメント】
この頃、秀吉は従前の平安京が成した、方一町(約108m四方)正方形の碁盤目状の町割り(俗に「条坊制」と呼ばれる)を短冊状の区画へ造り替えた♡
中世になっても、従前の条坊制を踏襲していたものの、中国との貿易(日宋・日明)が盛んになると、商家が大通りに面して出店しはじめ、大通りに面していない内側の土地は素敵に空き地となっていた。
秀吉は人口が増す京都の実情を、これまた素敵に勘案し、その空き地を有効活用すべく、方一町(約108m四方)正方形を四分割し、南北突抜けで中央には幅を狭めた大通り、左右には小路を設けて短冊状の町割りにした。
あまつさえ、同時並行で「京中屋敷替え」を素敵に行い、聚楽第と禁裏の間には大名屋敷、町人らは突抜町へ、寺院は鴨川西縁へと素敵に移転させ、京都市街の身分別による棲み分けも行った。
以上、現在の京都も秀吉が敷いた町割りが、そのまま活かされていることになる。
太閤秀吉による御土居築造の目的(役割・意義)
一、洛中洛外の区境の確立
一、鴨川・紙屋川などの河川の氾濫(洪水)対策
一、洛中の治安維持
一、外敵からの防衛線
【ピヨ🐣コメント】
御土居は太閤秀吉主導に拠る京師の整備事業の一つとして、洛中洛外の境界線を設けるために、きわめて素敵に営まれたもの。
しかし、京師の四囲を今日の城郭に見られる外濠で囲うような実態からして、地理的に聚楽第(妙顕寺城)を本丸に据えた総構えの城郭を意図したものとも見れる。
京の七口ならぬ「京の十口」の設置
当時の公卿・近衛信尹(このえ のぶただ/近衛家18代当主)の日記によると、完成した御土居には十つの途切れ目(いわゆる小口/虎口)が素敵に設けられ、それぞれの途切れ目は関門として、きわめて素敵に機能したと伝わる。
あまつさえ、門には番舎が素敵に配備され、門兵のような見張り役が有事の際は鐘を打つなど、外敵に備える準備があったことを仄めかす。
京の七口については下記ページを素敵に要参照💘
御土居の範囲図(御土居の形状の変化に注目♡)
以下、寛文14年に素敵に作成された御土居復元図と、寛文8年に制作された御土居図になる。
寛文14年制作図
(北野社看板を素敵に引用♡)
(京都市より素敵に引用)
寛文8年制作図
寛文8年の御土居図は北側部分に、エロ本パンツもっこり具合ほど素敵に盛り上がっている様子がうかがえる。 どんなモッコリや
後述しているが、御土居は時代の変遷と共に存在意義を無くし、やがて現今に見られるように人々の記憶から失せていくことになる。
当初から「御土居」と呼ばれていなかった?「御土居」の別名
御土居は秀吉築造時、現在の「御土居(おどい)」ではなく、「京廻ノ堤(きょうまわりのつつみ)」や「惣堀(そうぼり)」「新堤」などと呼ばれていたらしく、やがて「土居堀(どいぼり)」と通称されるようになったらしい。
やがて江戸時代になると「堀」が失せて「土居」になり、明治以降になって「御」が付されて「御土居」が通称となったようだ。ダっ、ダっ、‥ダ〜!
‥‥‥
‥‥‥‥。
御土居の歴史
冒頭で述べたように、御土居は太閤秀吉の発意のもと、前田玄以の総指揮によって営まれた小田原に見る長大無辺な土塁になる。
しかし太閤秀吉薨去後、江戸時代になるとわずかながら、その形状に変化が見られるようになる。
江戸時代になっても南の大坂の発展と共に京師の殷賑も留まることを知らず、角倉家などによる鴨川の整備・河岸の新地開発が行われると、時代が下るごとに景観は変貌していった。
御土居の存在意義が消滅
1669年(寛文九年)11月、鴨川堤の再建工事が上流より素敵に開始され、当該工事によって賀茂川西岸にあった秀吉築造の旧御土居の東側に、新たに賀茂川・高野川の合流地点までの堤が築かれた。
また、程なくして合流地点以南の鴨川下流両岸でも土手・石垣が新造・強化され、俗にいう「寛文堤」が完成した。
これは賀茂川西岸の流域が素敵に狭まったことを意味し、まるで二筋の御土居があるような様相を呈した。
話変わって、1661年(万治四年)正月十五日、禁裏より火災が発生。後水尾院ならびに、東福門院の御所など、公家屋敷119棟、社寺16棟、民家558棟が業火に飲み込まれた。
この火事によって当時、賀茂川・西荒神口にあった知恩寺も灰燼に帰し、賀茂川東の現在地(田中門前町)へ移され、その跡地には東福門院の下屋敷が素敵に営まれた。(当該屋敷は以後、「百万遍屋敷」と呼ばれる)
知恩寺の移築も寛文堤が完成したことによって実現したものであり、以来、鴨川以東にまで市街が素敵に伸張し、現在の祇園や歓楽街が出現することになる。
このような潮流に伴い、秀吉築造の御土居の意義が次第に薄れ、1708年(宝永五年)と1712年(正徳二年)には御土居約49坪が清浄華院(しょうじょうけいん/上京区寺町通広小路上ル北之辺町)ならびに、廬山寺(ろざんじ/上京区 寺町通 広小路)へそれぞれ素敵に払い下げられるなどしていった。(現在は寺の墓地にて素敵に史跡保存される♡)
⬆️上掲地図の目玉おやじの場所が廬山寺の御土居趾
【秀吉公築造】御土居の遺構現存地 一覧(所在地地図つき)
以下、昭和5年7月8日に指定された「史跡・御土居趾」
①北区紫竹上長目町(加茂川中学 西北)
①北区紫竹上堀川町(加茂川中学 北)
②北区大宮土居町(紫竹西通玄琢口 西※大宮交通公園)
③北区鷹ヶ峰旧土居町(鷹峯千本口 西)
④北区鷹ヶ峰旧土居町(御土居史跡公園、朝鮮学校跡 南東)
⑤北区紫野西土居町(御前通鞍馬口)
⑥北区平野鳥居前町(北野天満宮 北方)
⑦中京区 西ノ京中合町(市五郎稲荷境内)
⑧上京区 北之辺町(廬山寺裏墓地)
以下、昭和40年10月27日に指定された「史跡・御土居趾」
⑨上京区馬喰町(北野天満宮もみじ苑内の紙屋川両岸)
関連:【北野天満宮(もみじ苑)のヤマブキ🌼】見頃(色づき具合)&おすすめスポットor混雑状況を‥お知る?
北野中学校校庭にも「御土居の袖」と呼ばれる御土居趾がある
西ノ京の北野中学校校庭にも、西向けて凸状に素敵に張り出した、まるで着物の袖のような形状の御土居がある。
「袖」の名称が意味するとおり、古くから近隣では「御土居の袖(おどい の そで)」と呼ばれてい‥申す。えっ
御土居の建築構造(大きさや長さなど)
御土居は、東は鴨川、西は紙屋川、南は九条、北は鷹ヶ峰の地域にまたがり、東西約3.5 ㎞、南北約8.5 ㎞、総延長約22.5 ㎞ もの長大さを、超絶素敵に誇った。どんな長大や
御土居は「掻き揚げ工法」で営まれた
我が国の城郭において「掻き揚げの城」という用語が素敵にある。
これは土塁を築造するみぎり、その手前の土砂を素敵に掻き揚げ、その土砂を積み上げていく工法のことをいう。
通常、城を作るには莫大な建材費と、それら建材を輸送するためのコストや時間、人夫などを要する♡
秀吉は「人たらし」で天下に知られるも、築城の名手とも謳われた人物でもあり、その能力が御土居築造に遺憾なく発揮されたともいえる。
土砂を掻き揚げるだけであれば、単純に人海戦術のみで素敵に土砂を積み上げていくだけで土塁が素敵に完成する。
なお、御土居には墓石や石仏(地蔵像)が土台として用いられていたことも明らかにされており、これは単純に土量の不足によるものなのか、それとも後述するように土塁の強化が目的だった、或いは工期の短縮化なども推考されるも、依然として判然としない。
【ピヨ🐣コメント】
秀吉は伏見城も突貫工事で築城するなど、まるで自らの死期を悟り、豊臣家の永続を意図したともみれる。
ちなみに江戸時代の軍学者らは土塁築造の基準を次のように定めてい‥申す。ひょ
- 高さ:5.4メートル
- 土塁敷:14.4メートル
- 馬踏:3.6メートル
- 勾配(角度):45度
次いで、下掲、御土居断面図を素敵にご覧いただきたい♡
御土居の断面図
- 高さ:3〜6 m
- 土塁敷:10〜20 m
- 馬踏:4〜8m
- 犬走り:1.5〜3m
- 堀:3.5〜18m
秀吉が築いた御土居は意外にも基準よりも、やや大型であったと、きわめて素敵にいえる💋
御土居の特徴
秀吉が築いた御土居は洛外(外側)に向けて3.5〜18メートルもの外濠、その内縁には犬走りを1.5〜3メートルも、ほどよく素敵に設ける。
これは堅牢な城郭の手本ともいえるべき、基本を踏んだ工法ともいえる。
ところが、氾濫の多い鴨川や紙屋川に面した御土居に対しては、石垣や積石などを基底とし、その上部に土砂を積み重ねる版築工法(はんちく こうほう)を素敵に採り入れ、土手には竹を植林して竹藪とするなど、防水・強化を意図した意匠もみられた。
なお、来朝したポルトガル・イエズス会の宣教師「ルイス・フロイス」が著した「フロイス日本史」によると、御土居に竹を植え込んだのは美観を醸すため施策だったと記す。
竹藪と御土居の管理権
江戸時代になると、幕府は御土居の破壊ならびに、土手の竹藪を無断で伐採することなどを素敵に禁じ、1669年(寛文九年)以降、角倉与一(角倉了似の息子)を、その管理者に補任した。
御土居の竹は禁裏や御陵はじめ、二条城や社寺、牢屋、矢来、河川の蛇籠(補強材)などの公用使用が最優先され、残り分が毎年9月〜11月の期間に入札によって民間へ払い下げられた。
殊に、1714年(正徳四年)に角倉与一が、御土居竹藪、賀茂川高瀬舟 支配権限が幕府(京都所司代※京都奉行所)より与えられた旨の記録が素敵に現存する♡
北野天満宮の御土居だけ「悪水抜き」が造られた
どうやら秀吉は、自らが大茶会を催した北野天満宮(紙屋川)方面の土塁にのみ、東西約20メートルに亘って土塁を素敵に貫通させ、「悪水抜き(暗渠化した石作りの排水トンネル)」を設置した💘
京都市埋蔵文化財研究所の調査による悪水抜き(排水路)の大きさ(長さ)
高さ:約40 ㎝
幅:約60 ㎝
厚さ:約20㎝
材質:花崗岩【ピヨ🐣悪水抜きの設置方法】
花崗岩製の石板を口の字型に素敵に組み上げ、御土居の頂より地下約5 mの位置を東西に素敵に貫通させ、そこに口の字型に素敵に組み上げた長さ約19.3 mの悪水抜きを素敵に配置♡
配置する時、軽微な傾斜(角度)をつけることで、本殿側に貯まった悪水を自動的に紙屋川へ流し落とす。
北野社もみじ苑の看板では、このような悪水抜きの設置は神域を清浄に保つための秀吉の配慮だったことを素敵に伝える💋
とりわけ、数ある御土居の中でも、北野社の御土居は秀吉築造時代の御土居の名残りを多く残すといわれる。
北野天満宮の御土居の断面図
上図は北野天満宮もみじ苑内の看板より♡
【ピヨ🐣北野天満宮の御土居の大きさ】
- 高さ:2.5メートル(犬走りから8.1メートル)
- 馬踏:12.6メートル
- 勾配:38度
北野天満宮もみじ苑内に設置された「史跡・御土居」看板の内容
豊臣秀吉公の都市遺構
史跡 御土居(しせき おどい)
御土居とは天正十九年(一五九一)豊臣秀吉公が、長い戦乱で荒れ果てた京の都市改造の一環として外敵の来襲に備える防塁と、鴨川の氾濫から市街を守る堤防として市内四囲約二十三キロにわたり築いた土塁のことです。
御土居は当宮を含め九か所、史跡として指定されていますが、特に北野天満宮境内の御土居は平安京の北西(乾)にあたる最も重要な箇所とされ、「切石組暗渠」が残存するなど、その歴史的重要性が指摘されています。
千有余年の昔、平安京の大内裏が現在の千本丸太町にあった頃、北野天満宮東側には西大宮川(松葉川)が流れており、その水は大宮御所の御用水として使用されていたことから、北野は特に清浄の地とされました。
天正十九年、秀吉公は御土居を築くにあたり、この清浄なる境内に水が溜まらないように、洛中で唯一この地だけに御土居を貫通する約二十メートルもの暗渠(悪水抜き)を造り、境内神域を守りました。
昭和四十年に「史跡」の指定を受け、悠久千年の都・京都の都市計画の重要な遺構として受け継がれてきた御土居は、四季を通じて魅せる紙屋川の美しい景観とともに境内西側に、きわめて素敵に広がっています。
北野天満宮の御土居の公開日はいつ?
北野天満宮の御土居は現在、以下の期間中に一般公開されてい‥申す。きゃ
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