「御室桜」の「御室」の名前の由来とは?
仁和寺に訪れる前に仁和寺のパンフレットなどを見ていると、アムロ&ガンダムがサラミス級巡洋艦のカタパルトから轟音を響かせながら飛び出していくかの如くに、「御室」!!という言葉がよく飛び出てくるが、「御室」とは「室」に「御」を付した敬称になる。アムロいっちゃぅよ〜
904年(延喜四年/平安時代)に宇多法皇が当地(仁和寺)に「室」、つまり住居を営んだことから、当地は「御室」と呼ばれるようになった。
なお、宇多天皇(法皇)は真言宗徒でもあったため、ただの住居ではなく僧坊の意味合いも兼ねて御室と呼ばれた。
やがて仁和寺は「御室御所」とも呼ばれるよぅになると、御所(仁和寺)の周辺一帯までもが「御室」と呼ばれるようになり、現在でも変わらずに仁和寺の周辺一帯は「御室」と呼ばれる。
「御室」はオムロン株式会社の社名の由来にもなった
大手電気機器メーカーのオムロン株式会社(OMRON)の「オムロ」は漢字に訳すと「御室ン」となり、これはオムロンの創業地が、この御室であったことに由来する。
「御室桜」の名前の由来
「御室桜」とは単純に御室御所に植わる桜だったことから、御室桜と呼ばれるようになっています。
古来、京都一の遅咲きの桜とも云われ親しまれてきた歴史を有する。
時代々々の詩人たち愛でられ歌詠された御室桜
時代が下ると、いつしか以下のような俗謡まで歌詠されるようになった。
「わたしゃお多福、お室の桜、鼻(花)が低くても、人が好く」
この謡の意味として次のように解釈される。
「鼻が低いブタのような鼻をしたブサイクな女性(お多福顔)でも愛嬌があって激モテ💖」
御室桜は低木の桜で育ちきってもせいぜい2、3メートルほどの高さにしかならないが、人という人がまるで恋心を抱いたかのように惹かれ、群衆するなどの意味合いになる。
仁和寺や 足元よりぞ 花の雲
この句は御室桜が低樹高ながら、根元付近からよく脇芽(枝)を伸ばすので、その生態(特徴)のことを表現したもの。
与謝蕪村の俳句にも詠まれた
江戸時代中期の著名な廃人‥‥ではなく、俳人!もこの御室桜を見て次のような句を残す。
ねぶたさの春は御室の花よりぞ
花にきて御室を出るや 宵月夜
御室桜の歴史
975年(天延三年)2月26日、仁和寺にて桜会が営まれたことが日本紀略に記されることから、平安時代から当地に桜が植わっていたものと思われる。
なお、この桜会は鎮花会(ちんかえ)または鎮疫祭(ちんえきさい)とも呼ばれ、御霊信仰の御霊会(怨霊鎮魂の儀式)と同様の意義を有する。
仁和寺では特に桜花には仏の御霊が宿り、都各所に咲き乱れる花の花粉には病精が宿るとし、その病精を仁和寺に誘引して桜花に宿らせた後、仏の仏力(威力)で病精を一掃するという伝承のようなものが伝わ〜る。
病精成敗の折、桜花の美しさを讃美(供養)することで花の精の未知なる精気を高揚させることから、洛中洛外の人々が無病息災を願ってこぞぅようにして境内に群衆したらしぅぃ。
仁和寺の御室桜は内裏へも移植されたほどの名花だった
1229年(寛喜元年)2月、仁和寺境内の桜樹一株が閑院内裏(平安京二条にかつて存在した里内裏/御所)に移植されたことが旧記に記される。
御室桜は平安時代にはすでに名花であった様子がうかがえる。
応仁の乱で桜苑は灰燼に帰す
仁和寺境内は応仁の乱の兵火によって灰燼に帰し、桜苑も焦土と化した。
その後の桜苑がどぅなったのかは判然としないが、現在の御室桜は江戸初期に仁和寺が再興された際(1644年〜1648年)に植樹されたものだと伝わ〜る。
寛文年間には上皇・親王・宮家も観桜に訪れた
寛文年間(1661年〜1673年)には、上皇・親王・宮家の方々も観桜に訪れたことが当寺の記録に残されていることから、正保年間の再興からわずか20年ほどで旧容を回復したことにな〜る。
皇族を中心とした貴顕が観桜に訪れた事実は、やがて公のもと広く世間に知られるようになり、興味に沸き立つ一般花見客は殺到した。
しクぁし!
一般の花見客が増えたことで皇族の観桜は中止となり、替わりに仁和寺から宮中へ御室桜の花枝を献上する運びとなり、やがて慣例化する。
江戸初期には数々の俳人たちも絶賛した
1677年(延宝五年)刊行の「出来斎京土産」では南大門外の一般庶民が酒宴をまじえた花見に興じる様子が描かれてい‥‥‥申す。ひょ
1689年(元禄二年)刊行の「京羽二重織留」では次のように記される。
『東山は陽気和順にして花開く事はやく、仁和寺は西方寒冷の地なり。この故に花の開くことがおそし』
また、貝原益軒が著した「京城勝覧」では、次のように記す。
『春はこの境内の奥に八重桜多し。洛中洛外にて第一とす。吉野の山桜に対すべし。毎年花盛り十余日の間は花見る人多くして日々、群集せり。
花を賞でん人は始中終(始めと中と終わり)三度行きて見るべし。木多きゆえにさかり久し。』
江戸中期に一時、一般観桜が禁止された?
寺の記録によると、1735年(享保二十年)に境内の花見が禁じられたらしいが、1756年(宝暦七年)に法親王(当時の仁和寺住職)が困窮する周辺住民たちの惨状を嘆かれ、花期の御影供(旧暦3月21日)の期間のみ、中門内側の敷地にて茶店の出店が許可されたとのこと。
近世まで御室の住人たちが御室桜を管理していた?
往時は門前周辺の住人たちが自前の庭に植わる桜のごとくに、一年を通じてよく世話したと伝わる。
たとえば、堆肥を施肥として奉納したり、害虫駆除や除草などの作務にも無償奉仕した。
だグぁ!
時代が下るにつれ、世情が変わるとそれら奉仕する人々もいなくなり、やがて寺僧で管理するようになった。
現在は現地の有り様を見るかぎり、寺僧のほか、専門知識を有する植木職人が管理しているものと思われる。